うつ病患者がノーベル賞を狙ってみた件

ノーベル文学賞を目指すブログです。

小説 千代の四季

そこは、京都随一の繁華街である。このアーケード街の入り口近く、頭上に大きな看板の文字で、新京極と書かれてあった。四条通りから生え出たように伸びたこの道は、奥本千代が初めてお遣いに出かけた場所でもある。
殊に、五つの小さな女児であった彼女は、この道を真っすぐに行くと右手に見える錦天満宮に大きな思い入れがあった。
そこは、天満宮というだけあって、菅原道真を祭神としていた。入り口頭上にはうず高く積まれたように白い提灯が厳かな墨字に映えて美しかった。
居酒屋の提灯ほどの高さにあるのは錦天満宮と太い文字、説明文として白い立て看板には、露骨に「頭の神様」と書かれている。
中に入れば、足を崩した凛とした黒牛の像が参拝客を出迎える。その牛の頭は長年、地元の人や、観光客に撫でられて、黒の塗り物が落ち、皆の信仰の手垢で金色に光っていた。
千代は、子供の頃、この牛の像に触れるのが怖くて、いつも母の着物の尻に隠れて、ぐずぐず言っていた。
「千代ちゃん。牛さん、撫でてほしい言うたはるわ。ほら」
そう言って、明るい声で促しても。千代は決してその手を牛の像に差し出すという事は無かった。
「ほんに。誰に似たんやろうなあ」
祇園花見小路の屋形で、料理屋を営んでいた千代の両親は、いつまでたっても引っ込み思案の娘を見て、将来を憂いだ事だし、ひとりで厠にも行けぬ弱虫にだけは育てたくないと早々に自立を促した。
それが、四条通りからひとりで新京極通に入って行かせ、少しずつ、奥に奥にと、距離を伸ばさせるというものだった。
最初その話をされた時、千代は、畳の上にちょこんと座って、むすっとしたように目前の母の膝元をじっと見ていただけであったが、いざ、お遣いけっこうの日が近づくと、露骨に体調不良を訴えだした。
或る日の朝、いつものように母が千代を起こしに行くと、布団の中で彼女が、しくしくと肩を震わせて泣いている。
母は、いつもの仮病だろうと傍に座って、
「どないしたの。千代ちゃん。今日は、お遣いの日やろうに」
と、布団越しから背中を優しく撫でてやるが、千代は首をイヤイヤと振るばかりで丸まったままだ。
「千代ちゃん。そんなに、イヤやの? お団子買いに行くだけやないの?」
千代はそう諭しても、小さな獣のように唸るばかりで返事をしない。
母は、呆れて目を細めてしまった。やはりここで甘やかしては、この子のためにはならぬという本心を貫くべきと考えたのだ。
「千代ちゃん。起きて、起きなさいってば」
そう言って無理に布団をはぎ取った瞬間、母は千代の背後から見た見事なまでの紅色に思わず、ひッと喉を鳴らして後ろに尻もちをついた。
うずくまる千代の敷布団が、真っ赤な血で染まっていたのである……。
「ち、ちよちゃん。あんた、何があったの」
驚愕して、娘を抱き起した時、その口から生え掛けていた大切な歯がぽろぽろと零れるのを見て母は咄嗟の勘で合点がいった。
「あんた……。お遣いがいやで、歯を自分で抜いたんかいな……なんとまあ」
千代は、目じりにシワを寄せて、ぼろぼろと涙の粒を流しながら、子供のしゃっくりでえづいていた。
この一件以来、母は、千代のこころが他の子以上に敏感で、か細いことを再確認した。
「そやかて、小学校に上がる前には、何とかせなあかんしなあ」
藤つぼという料理屋で板場を担当している父は、顎から口の周りを包帯でぐるぐる巻きにした千代が、ようやく落ち着いて縁側ですやすや眠るのを横目に見て、深く息をついた。
「京都のおなごが、こないなことでは爪はじきにされるで」
父は、そう言ったまま固く腕組みして、眉間にしわを寄せ、黙り込んでしまった。
何も知らない千代は、陽だまりの中で大好きなウシのぬいぐるみを抱いて安心したようにこちらに寝返りを打った。
千代は、錦天満宮の牛の像は一切触れられずとも、ウシさんのぬいぐるみはかじるほどに大好きだった。
父は、そのウシのぬいぐるみを疎ましく目を細めて見つめると、
「いっちょ、鍛えてやるかい」
千代が寝ている間に、そのぬいぐるみを畳の部屋の天袋に隠してしまった。
「ええのんどすか。あなた、そんな事して……。あとで、泣かれますえ」
「ええんや、ええんや。この子の将来のためや」
父は、妻の言葉もさえぎって、そのまま部屋を後にした。
彼としては、少々の粗治療をして、それでダメならば、専門家の力でも借りるより仕方がない、という簡単な考えが前提にあったのだろう。しかし、話は、そう簡単にはいかないのであった。


昼頃、父が藤つぼの奥の従業員室で、若い衆が作った賄い飯を食べていると、
「社長……。なんや、ご自宅で、えらい騒ぎになってるみたいどっせ」
と、帳場の暖簾を手の甲であげて、番頭が憂い顔になりながら、黒電話の受話器を耳に当てて言った。
その受話器からは、微かに、女児の泣く声が聞こえる。
千代の父は、他の従業員の手前、慌てて狼狽える姿を見せるのも恥ずかしいので、黙って茶碗の鯛めしを箸で食べ続けた……。
しかし、従業員たちの視線が、ちらちらと自分を蔑むように動いて、遂には、食べかけの鯛めしを置いて、店を飛び出していった。
料理屋の玄関から、弾丸のように出て行った彼を見て、隣のちりめん山椒やの娘である美智子が、藤つぼの女中と立ち話しながら、
「あれで、お兄はん。子煩悩やからなぁ」
と、十八の娘が大人の女のような口をきいて笑っていた。
花見小路のまるい円柱型のポストの周りには、代々、女たちが誰誘うことなく自然と集まって井戸端会議を開いていた。
それは、千代の母も同じで、千代が生まれた時なぞは、背中に乳呑児は括り付けて、先輩主婦の子育てに関する知識をここで仕入れて、家で実践して見るという風であった。
しかし、幾らか特異な千代を育てるのは、前例が少なく大変な部分が多かった。
「それで……あのひと、今、どないしてますのん」
「へえ。急に、店、飛び出ていかはりまして……。それより、お嬢ちゃんの様子は」
「今、ようやく、落ち着いたところどす」
母はそう言って、電話の受話器を耳に当てたまま、首を伸ばすように畳の間を覗くと、天袋の下で千代がウシのぬいぐるみを強く、熱く、抱きしめていた。
母は、あんまり千代がぬいぐるみがない、ぬいぐるみがない……と泣き叫んでうるさいので、遂には隠し場所である部屋の天袋からそれをだして、もう一度、千代に引き合わせてしまった。
それ故に、後に夫からは、
「辛抱が足りひんのとちがうか」
と、なじられるように叱られてしまった。
「えらい、すみませんどした……堪忍しとくれやす」
千代が、ぬいぐるみを背中に括り付けて、子守りごっこ遊びをして廊下を歩いている間、母は涙をのんで、謝り続けた。
しかし、父は、謝られてどうにかなるわけでもないし、深く息をついて上座に、虚栄をはって、ごろりと寝転がると、
「とにかく、今日はつかれた。飯は、いらん」
そのまま、昼寝でもするように板前の白衣ままふて寝してしまった。


その日の夕時、蝉の声が俄かに弱くなってきた。
夕焼けの赤が、鏡のように滑らかな石畳に反射して、美しい鈍色に輝いていた。
これから、仕事に出かける舞妓が、色鮮やかな着物の裾を手に引いて、ふたり、ツンとすましたように歩いて行く。
京都の一番美しいとされるのは、この時間帯なのかもしれない。
遠く、八坂の塔が、日を浴びて、摩天楼のように眩しく見えるのもまた、風流であった。
千代は、この時、今さらになって自分の歯のない事に不便を思っていた。
「お母ちゃん……。うちの歯、いつ生えてくるやろう……」
漆の重厚な卓の上に、マヌケにころころと転がる彼女の抜いた乳歯たち。
母は、ようやく反省しだした千代の頭を愛おしげに撫でると、
「それやったら、おまじないの方法、教えてあげようか」
「おまじない?」
千代が、そのどんぐり眼を煌々として、瞳を濃くした。
「そうえ。丈夫な歯が生えてくるようにおまじないするの」


屋形の軒には、藤つぼの白い提灯がかかっている。
千代の頭よりもずっと上にあるので、彼女はその提灯の下の部分がどんな形状をしているのか、大人よりもよく知っている。
千代はその提灯の下に隠れるように、
「お母ちゃん。おまじないって、お遣いのこと……?」
急に外に出されて、青白い顔をした千代の髪は、こころなしか震えているように見えた。
しかし、母が顔の前で、「ちがう、ちがう」と明るく手をひらひらさせた時は、ようやく安堵して、胸を撫でおろした。
「千代ちゃん。おまじない言うのんはな、上の歯を縁の下に、下の歯を屋根に投げれば、大人の歯が生えてくる時になれば丈夫な歯が生えてくるのんどっせ」
千代は、それを聞いて、さっそく、それを試したくなった。
しかし、手の拳の中に、ごろごろと納まった乳歯を、手をひらいてみた時、千代はしょんぼりして思わず石畳の上にしゃがんでしまった。
「お母ちゃん……。うち、大変な事をしてしもうた。上の歯と下の歯が混ざって、どっちか分からへん……」
「まあ……」
千代の悲しげな顔が、鏡のように滑らかな地面に俄かに映った。
母は、今日一日で、泣いたり、喚いたり、喜んだり、落ち込んだり……いろいろある娘の精神の気ぜわしいのを考えると、いよいよ、生活が危うくなってくるような感覚があった。
千代の涙が、夕光りのなかで、まるで、わたしは、弱い子ですという訴えのようでたまらなかった。
この子が、大きく羽ばたくころになるころ、時代は一体、どのような厳しさで我々の人生に影響を与えるのだろう。
それを考えた時、やはり千代には、強いこころで居て貰わなければ困るのは、これから年老いていく両親の方だ。
「千代ちゃん……。代わりにお墓つくろか? 歯のお墓」
「……歯のお墓?」
「そうえ。そっちの方が、なんぼか信心深いわ」
千代の黒目がちな目が、微かに晴れたような気がした。


屋形の中庭には、石灯篭が据えてある。
廊下を四方に囲って、その真ん中にその庭があるのである。
夏になると、大原野の親戚から貰った蛍を放して、美しい蛍狩りをする。
日頃、怯えて引っ込み思案の千代も、この時ばかりは、率先して、蛍見物を楽しみのであった。
今年は、その中庭に、「ハノハカ」と書かれた棒が小さな砂山に突き刺さっていた。
夜遅く、仕事から帰ってきた父はそれを見て、
「あれは、千代が作ったものかい」
と、感心するように妻の持ってきたビールをコップに手酌しながら聞いた。
「へえ。あの子、字の覚えは早いほうらしいんどす。今日一日で、仮名をすべて覚えました」
「ほう。それは偉い」
父は、冷たい泡のビールを喉に流し込み、ああっ! と極楽に飛んだような声を出すと、
「頭のええのは、ワシに似たようやな。ワシは、六つで、商売の計算しとったさかい。お前はどうや」
「うちかて、七つの頃には、もう踊りのお弟子さんが通ってらしたもん。まあ、親ばかになるんは、しょうがありまへんけど……」
妻はそう言うと、向かいの卓に自分も座って、何かぼんやりしたように鴨居に並んだ先祖代々の写真を見た。
明治の四十年に、祖父の亀吉が一族で初めて写真に納まってからというもの、
「お前も、記念に撮ってもらえ」
と、次々にこの鴨居に額が増えた。
その額の一番右には、三つで亡くなった長男の清信の写真もある。
清信は、子供らしい子供で、生まれてこの方無垢な心以外に、両親に示したことが無いような美しい顔をしていた。
誰が教えたか分からぬが、父母に対していつも敬意を払い、ハイカラにも、
「パパ様、ママ様、お帰んなさい」
と、東京の子のような口で、外出から帰ってきた両親を玄関まで迎えに行った。
その清信が、脚気の症状で亡くなって、もう十年。母は、彼の命日のこの時期、いつも溜息ばかりついていた。
「きよちゃんが、いたらどれだけ楽しかったやろう……」
「よせよせ……。湿っぽくなって来る」
そう言って、半分残ったコップのビールを上からうつろに見つめる父……。
白い泡が消えゆく中で、その泡が清信の思い出と重なり、グッと涙がこみ上げてくる。
「ワシらにはまだ千代がおる」
「そやけど……」
「ああ、もうええ……」
千代の父は、やけ半分にその残ったコップのビールをぐびぐび飲み干すと、
「明日も早い。ワシはもう寝る」
そう言って、ステテコ姿に腹巻でさっさと廊下を通って、寝室へと逃げて行った。
千代の母はそれを障子の隙から恨めしそうに見つめて、
「……あのひとは、いっつもこの話になると、情けのうなる」
空を見上げると暗い京都の月が雲に隠れようとしていた。
その雲は、東から流れてくるように見えた。
母は、それを見上げて、ただ一言、
「……きよちゃん」
と呟くと、しばらくぼんやりとか細い声で、子守唄を唄っていた。
夜の二時を過ぎていた。
今夜はもう月は出ぬそうな……。



「お母ちゃん。起きて、起きて」
翌朝、千代が珍しく家族の中で一番に起きて来て、卓の上に顔を突っ伏したままとろとろ眠ってしまった母を揺すり起こそうとした。
しかし、完全に酔っぱらっていた母は何か、もごもご言って中々起きてはくれなかった。
卓の上には、酒瓶の空いたのが二本、コップには飲みかけの酒が三分の一ほど入ったままだった。
千代は、こんなだらしのない母を今までに一度も見た事がなかった。
「お母ちゃんも、飲みたい時があるんだわ……だって、こんなに美味しそうなんだもの」
見ると、寂しく残った酒のコップには、気泡というものではないが、子供でも目が爛々とするような魔力があるように思える。千代は、普段、父がカップの酒のふたを開ける音が好きで、何か見惚れるように父がおちょぼ口でそれを飲んでいる姿に、生唾をのんでいた。
だが、千代が幾ら、興味深げに傍に寄って行っても、
「ああ、アカン、アカン……。これは、子供にはまだ早い。千代が、二十歳になったら、一滴くらい飲ましてやってもええけどもなあ」
千代は、まだ五つなので、そうなるとあと十五年待たないと、この魔の飲み物を飲むことが出来ない。
頭の良い千代は、指で計算して見せて、直ぐにがくりと首をもたげた。
「トホホやわ……。ほんま」
「ハハッ。そんな言葉、どこで覚えてきたんや」
父は、もうねじり鉢巻きで愉快にステテコの股を叩いて、赤ら顔のまま、陽気に歌を唄っていた。
その酒が、今目の前で、コップに入って無法に置いてある。
千代は、瞳を大きくさせて、いつものようにごくりと生唾をのむと、周りをきょろきょろと見て、
「ちょっとくらいええやんな……ちょっとくらいやったら」
そのまま、コップの酒を胸の前まで引き寄せて、意を決したようにゴクリと呑んでしまった。


「あんた……ああ。千代が、千代が……」
千代の父が寝室で朝の微睡の中、蚊帳の中からふらふらと出てこようとした時だった。
妻が廊下の奥からばたばたと足音を立てて、慌ただしく部屋に飛び込んできた。
「あんたァ……大変どす。ち、ちよが」
「なんや、朝から、けったいやな? 千代がどないしたんか」
畳に両手をついて、全身で息をする妻を訝しげに見る夫。
妻は、心臓を押さえるように胸を撫でさすって、中々言葉が出ない。
善三は、顔をしかめるように取りあえず、幸子の背中をさすった。
「何があったんや。え? 千代の歯でも生えてきたか」
「ち、違いますがな。ち、ち、ちよがァ……」
その時だった。後ろの廊下から、その千代が壁にバタバタぶつかりながら、よろよろとバカ騒ぎして、善三の部屋に入って来た。
「ヒっ……。これは、これは、パパ様、ママ様。お久しゅうございます」
その瞬間、鴨居の額縁がガタリと畳に落ちて音がした。
それは、ふたりの長男、清信の写真だった。
善三と幸子は、思わず顔を見合わせた。
「あんた……」
「ああ。この口調……。清信と一緒や」
千代は、半目を開けて、ひっくとまたしゃくりをすると、男らしく畳にあぐらを掻いて、
「お二人とも、最近元気がないですねえ……。わたし、あの世から、還ってきましたよ」
両親は、目をまるくして再び、お互いの目を見た。
「間違いない。清信の口調や」
「ええ……」
千代は、そのまま、一時間ほど、兄の清信に成り代わって、両親と積もる話をして、ふっと酔いが覚めたように素面に戻ると、目をぱちくりして、
「あれ? お父ちゃん、お母ちゃん……。うち、どないしたんやろう」
どうやら、自分が酔っぱらっているときに、清信に成り代わっている時の記憶はなく、朦朧としてしばらくぼんやりしていた。


その日、幸子は、中庭に面する廊下で、ごろごろ寝てばかりいた千代の傍で、観察するように、
「ねえ、千代ちゃん。ほんまに、記憶がないのん?」
「ふん……。お酒のんで、倒れてからはなんにも」
彼女はそう言うと、掛け毛布を口元まで持ってきて、母の顔をじっと見た。
「なんえ、お母ちゃんの顔になんかついてるか」
「ううん……。なんで怒らへんのかな、って思って」
当然である。五つの女児が、日本酒を盗み飲んで、気を失ったのだから……。
しかし、母の顔はどこか安心したように穏やかで何かに満足しているようであった。
千代はそれを訝しく思いながら、今一度聞いた。
「うちのお兄ちゃんと、何話したの?」
母は、千代の火照った頬をうちわでゆっくりと仰いでやりながら、
「いろーんなこと話たえ」
「いろんなこと?」
「そう。いろんなこと」
千代は、それを今でも不思議に思うと、うちわの風が清々しい前髪になびく中、体を起こして、
「うち、お遣い、行ってみようかな」
「……え? どないしたの、急に」
「うん。そやかて、お兄ちゃんがついていてくれるんなら、うち、錦天満宮の牛さんの頭、触れる思うの」
千代の体の中で、どうやら、清信の残り火のようなものが残っているようだった。
清信は、なんでも率先して、実行して、確かめてみるというハツラツなところがあった。
千代にもその魂が受け継がれているとしたら、今、彼女を外に出すのは好期なのかもしれない。
思いたったら吉日とは言うが、それをまさか弱虫泣き虫の娘から促されるとは、幸子も思っていなかっただろう。
兎にも角にも、そのお遣いは、明日、結構という事になったのだった。
千代が明らかに変わり始めた。
「お母ちゃん……。うち、お料理、教えてほしいわ」
着物を母にヒモでたすき掛けしてもらって、ちらし寿司の作り方を教えてもらう。
酢を寿司桶に入れた飯に、しゃもじで切るように馴染ませながら、うちわで丹念に扇ぐ作業を任された千代は、額に汗をかきかきしながら真剣な様子であった。
まだ、力の入れようが分からないから、無駄に力んで、腕が張り、作業が終わった後は、
「はあ……手がダルダルになってしもうた……」
と仰向けに大の字でひっくり返っていた。
「千代ちゃん、まだ、玉子、焼かなあきまへんえ」
「うう……。確かに」
この時、千代は主婦業の過酷さを思い知り、将来は、花嫁ではなくて、花婿になりたいと言ったりした。
「そやかて、千代ちゃん。そとで働かはる人も大変なんえ?」
「お父ちゃんも……?」
「当然、しんどい思いしたはります」
母は、専用の四角い鉄板で、薄焼き玉子を焼きながら、思いがけず、自分は娘を生んだのだという気がして来た。
料理を教えながら、生きる術を説くなどとは、今までした事のない子育てであった。
雨降って地固まる、とは言うが、まさか、娘が酒を飲んで覚醒するとは、母の幸子も思っていなかったであろう。
薄焼き玉子を焼けるのを待って、包丁で、長ぼそく切って行く……。
さすがに包丁は、千代には早いので、寿司桶の飯に、玉子を振りかけていくのをやらせてみると、中々、センスの良いところを見せた。
それでも、うちわの工程で腕が、だるいのか、直ぐに、千代は息をついて休みたがった。
「主婦の道は、厳しおすなあ、千代ちゃん」
「……ほんに」
最後に、錦市場で買って来た、鯛やイクラの海鮮類を盛りつければ、出来上がりである。
千代は、その出来上がった宝石箱のようなちらし寿司を見て、元気を取り戻すと、
「お父ちゃん、はよ、帰ってこうへんかなあ」
と、自分から玄関先に出て、白川の欄干に腰かけ、夕凪の黄昏に待った。
蝉の声が、蒸し暑い京都の夏の心をあらわしている。
欄干から、下の川を見つめると、誰が流したのだろう、笹舟が川上から団栗一つ乗せて渡ってきた。
千代が、その笹舟をぼんやりと光る水面に消えて行くのを見送っていると、
「お前、ここら辺のもんか」
学生帽を被ったいがぐり頭の顔中泥だらけの少年が千代に話しかけて来た。
千代は、急にしゅんとして、下をうつむくと、着物の裾を掴んで、黙り込んでしまった。
「なんや、しゃべれへんのか」
「……」
「もう、ええわ。道教えてもらおう思たけど、どっかで聞くわ」
少年は、そう言うと白いシャツの姿のままその場から駆けだそうとした。
しかし、思いがけなく、そのシャツを千代に掴まれて、振り返った。
「なんや?」
「うち、道……あんまり知らへんの。かんにん」
少年は、黒い宝石のように光る千代の瞳をじっと見ると、すっと笑顔になって言った。
「かまへん。知らんのは、恥ずかしいことやない。知らんことをしったかする方が恥ずかしい」
千代は、その言葉を聞いてきょとんとした。
「どういう意味? 難しいて分からへんわ」
少年は、そんな千代に、学生帽を脱いでひょいと被せると、
「お前は、偉い、いう事や」
そう言うと、そのまま、脱兎のように駆けだして行った。
千代は、何か不思議な感覚に苛まれて、学生帽を被ったまま、少年の言った言葉を繰り返していた。
「……お前は、偉い……か」


その日の午後、善三が自宅に戻って来て昼飯を食べようと、半日疲れた体を、ドッカと座布団の上に下ろすと、ふと、「なんや? 千代は元気が無いようやけども……」
見ると、いつもの中庭前の廊下に背中をまるめて腰かけて、思いつめたように溜息ばかりついている。
傍には、どこから持ってきたのやら、父には素性の分からぬ学生帽が置いてある。
「あれは、なんや」
「へえ。何やしりまへんけれども、知らへん男の子にももろうたらしいんどす」
幸子が畳の部屋にちらし寿司の桶を抱えて、入って来た時に善三が訊くと、そういう答えが返ってきた。
千代は、その学生帽を物憂げに膝の上に置くと、
「お前は、偉い……」
そればかり心に灯がともったように言葉にしていた。
中庭の石灯篭に、どこからか夏の小さい鳥が飛んできてチチチと鳴いた。
学生帽を見て、思いつめるとは、いかにも月並みな事だけれども、千代はある種の勘でいつかあの少年にもう一度会えるような気がした。
そう思えるほどに、千代の中に何かしらの思いが燃え上がるようだった。


夏か本格的になるにつれて、京都の暑さはここらに住む人たちに文化としての色どりを与える。
七月の祭りとして祇園祭は有名だけれども、宵山、山鉾巡行以外の日にも実は、一月に渡って祭りの神事はこの京の至る所で行われている。一日の吉符入、山鉾巡行の順番を決める翌日のくじ取り式は、まあ、祭りの打ち合わせとしての役目があって、本当の意味での祭りの始まりは、十日のお迎え提灯からである。
千代は、去年四条大橋で行われた神輿洗いを見て、その猛々しさに怯えて、顔を両手ではたと隠して泣き通しだったが、今年は、そんな事もなく、
「お母ちゃん、鴨川の水で洗わはるのんみたら、うちも水浴びしたくなってきたわ」
と、見物の客の一人として何でもないという顔をしていた。
しかし、ただ、一つ異物なものと言ったら、あの日以来、千代はおなごのなりをしているのに学生帽を被るようになったことだ。
夏の暑いことでもあるし、幸子は外に出る際、先月、高島屋で買ってやった女の子用の麦わら帽子を被るように言ったが、千代はそれを止して、
「うちには、これがあるから、いいのん」
そう言って、さも当たり前のように学生帽を被って、玄関から飛び出していった。
花見小路を歩いていると、そんな奇異な少女が、学生帽を被って、小躍りを踊ってくるくる回っているので、
「いやん。可愛らしいわあ」
と、昼間の浴衣姿で化粧気のない若い舞妓らがニ三人、とことこ走り寄って来て、千代の紅くて柔らかいほっぺたをつついていた。幸子としては、もう少し女の子らしくしてほしいと望むのであるが、外の世界に興味を持ち始めた矢先に、あれはダメだとか、これはダメだとかいうのは、さすがにこちらの気も引けた。
それ故に、しばらく、そのまま放って置いたところ、その千代がこんな事を言う。
「お母ちゃん、うち、勉強がしたいの。お寺の塾に通わせてほしいのん」
幸子は、それを聞いた瞬間、頬張っていた五つ刺さったみたらし団子を動揺して、ひとつ、ぽろりと畳に落としてしまった。
途端に、咳き込んで、顔を伏せた幸子は、
「なんえ……。大学にでも行くつもりかいな」
「へえ。そのつもりやけれども」
幸子は、さも当たり前のようにきょとんとして言う娘を見て、深く息をつくと、
「千代ちゃん。塾って、何する所か分かってるんか? あんた」
千代は、当然とも言うべき、したり顔で、
「当然どす。勉強ですやんか、母上」
「ほんなら、勉強ってどんなことするか分かるか」
その質問を受けた瞬間、開け放された障子のから千代の背中に生ぬるい風が当たった。
「ほうれ、何も分からへんやないの。千代には、まだ早い」
幸子はそう言い放つと、みたらし団子のタレで汚れた皿を、手に取り卓の前から立ち上がった。
千代は何かしょうんぼりして、部屋を出て行く母のくるぶしを恨めしそうに見つめていたが、どうにも諦めきれず、回覧板に書かれた塾の宣伝チラシをどこからか持ってくると、
「お母ちゃん、おたのもうします。見学だけ、見学だけ行ってみたいの」
そう言って、母の尻に甘えるように張り付いて中々、離れなかった。
確かに、勉強がしたいという事がいけないというわけではないので、幸子も見学くらいだったらいいかもしれないと考えるようになったのは、その日の夜の事。
善三がいつものように、冷たいビールを飲んで、つまみに冷ややっこを生姜醤油で食べている時であった。
幸子も晩酌に少し、いただきながら、千代の持ってきたチラシを卓の上に置くと、
「どう思います? あんた」
「どう思うて、千代はまだ五つやぞ。塾なんぞいかんでも、何年かしたら小学校があるやないか」
一向に取り合わない赤ら顔の善三の顔をチラッと見て、もう一度、塾のチラシを手に持った幸子は、それでも、何か考えるところがあった。
「あんたなあ、千代が最近、なんで活発になったか理由、知っとりますか」
何か、意味深な低い声で言う妻の話口調を耳にして、善三は思わず、冷ややっこのお椀から顔を上げた。
「なんや、その理由て……?」
「へえ。聞いて、驚き為さりませんことや。あの子、大学に行くつもりどっせ」
その瞬間、善三の眉が微かに動いた。
「大学て、あの大学かいな」
「他にどの大学がありますねんな。小さいこの戯言や思うて、笑わんことどすなあ。あの子、この歳で、百人一首、全部暗記してるんどっせ。他にも、漢詩やらなんやら、自分ではそれが勉強やと分からんと、覚えてしもうたらしんどす」
善三は、とたんに、箸を持つ手が止まってしまった。自分は、家庭の金銭的な問題から、高校もいけず、随分と、知人たちに劣等を覚えているが、娘の千代がもしも良い大学にでも入ったら、その奴らに、ようやく大きな顔が出来るというものだ。それを考えると、今から、才能を伸ばしておくのも良いかもしれない……。
善三は、そう考えがまとまると、
「よっしゃ。お前、今度、千代を連れてその寺の塾に見学に行ってこい。こうなったらもう総力戦や。ワシも、気張らんといかんなあ」
善三は、ステテコの股をまるで江戸っ子のようにポンとひとつ打つと、騒がしく立って、廊下を抜け、鼻息荒く店に戻って行った。
残された幸子は、唯々、あっけに取られて、
「……少々、はっぱをかけ過ぎたかもしれへん……」
と、目をぱちくりして、その夫のぷりぷり動く尻を廊下の奥に隠れるまで見ていた。


次の日曜日、母子は早速、寺の塾へと見学に出かけた。
千代は何かウキウキして、朝からごきげんで、鼻歌交じりで学生帽をハンカチで磨いていた。
「千代ちゃん。あんた、それ、被って行くつもりか」
「そうえ。これ被らな、気合いが入らへんからな」
「ふーん。あんたなりのルールがあるねんなあ」
五つの少女はそれを頷くと、花柄の手提げかばんに筆記用具を詰めて、
「今の時代、個性を大事にするのはおなごも一緒どすからなあ」
そうしみじみ言う娘の鼻をちょっと摘まんで、
「生意気言ってやがるわ。このチビは」
と、母は笑った。


寺の塾は、回覧板でチラシが回ってくるくらいだから、わりかし近くにあった。
四条河原町の或る細い裏路地を入ると、大通りでは分からない庶民の京都がある。
古い町並みや、腰の曲がったお婆さんが、割烹着を着てひしゃくの水で路外に打ち水をする。
そういった日常の中に、誰も知られていない、観光客も素通りするような古寺がある。
その古寺は、太った眼鏡の住職が、朝から、十匹以上は居るだろう、ブチやミケ、そうして牛柄の野良猫にご飯を分けてやるような呑気な場所で、幸子は、一瞬、ここが本当に私塾であろうかと、チラシに書かれた地図を二度見したほどだ。
境内に続く道には黒板があって、そこに白線でこう書かれてある。
『猫は良い。飯をくれてやっても、礼を言わないのが良い』
母子は、思わず目をぱちくりして「なんのこっちゃ?」と、顔を見合わせた。
太った人の好さそうな眼鏡の住職は、門前でなにか躊躇している母子に気がつくと、
「もしかして、塾の見学の方でしょうか」
何か、すっと伸びあがるような透き通った声だった。
幸子は、その通りですと申すと、住職はにこりと笑って、
「お待ちしておりました。先生が奥で三点倒立して待っています」
「……はあ」
変わった人が居るものだと幸子は思って、思わず千代の手を強く握った。
お互いの汗が、馴染むように滑りあう。
「千代……。変なところやったら、さっさと帰ろうな……」
寺の中を案内する住職のうしろで幸子は、こころもち小さく屈んで、千代に耳打ちした。
千代は、何か神妙な顔をして、学生帽を深くかぶると、
「今は様子見どすなあ……ふむ」
彼女も相当に警戒していたようだった。


本堂に通されると、そこは厳かな仏教世界を表した釈尊絵巻が屏風で飾られていて、木魚や、ごりんなど、通常、坊主がお勤めで使う道具は置いていなかった。
母子は、その板敷きに座布団をすすめられて、そこに座ると、あとから住職が急須に茶を入れて持ってきた。
「今しばらくお待ちください。先生は、他の子を教えておりましてね」
幸子は、その言葉を聞いて、とっさに、
「授業風景は、見せていただけないのでしょうか」
と逸る思いを込めて声に出した。
住職は、板敷きに座布団なしで座りながら、
「まあ、いろいろと事情というものがりますから。個人で、勉強するのは、障がいのあるお子さんなんです」
「まあ……。障がいのあるお子さんも、塾に通われているのですね」
「その通りです。この塾は、人間力を養う塾ですから……。読み書き計算ばかりが出来て、良い大学に入る事が、世間の風潮のように思われておるようですが、ここの塾の目的は、もっと精神に宿したものを大切にして、人間的に魅力ある子どもを育てることにあるのです」
千代は、そう言われた瞬間、何か感銘を受けて、鋭い風が体を通るような感覚を覚えた。
隣に座っている母の着物の袖をクイクイと引っ張ると、
「お母ちゃん。うち、何や知らへんけれども武者震いしてきたわ」
「ほんに……。お母ちゃんもどす」
住職は、そんな母子の会話を聞いて、高く笑うと、
「まあ、とにかく今日の見学会で何かを掴んでいただければと思います。そんな事を言っていたら、生徒が通ってきましたなあ」
住職がそう言って、本堂の外に目線をやると、母子も後ろを振り返ってどんな子が通って来るのだろう、と目を大きくした。千代はその時、夏の光りの中で眩しく照らされたその生徒の呆けてこちらを見つめる姿を一生、忘れないであろう。いがぐり頭で、白いシャツを着た少年が、真新しい学生帽を脱いで折り目正しい挨拶をした。
「長塚久太郎です……。今日は、ほんま、ええ塩梅に晴れまして、よろしおすなあ」
千代は、一瞬、夢を見ているのかと思った。数日前、白川の欄干で、笹舟が流れてくるのを見ている時に、
「お前、ここら辺のもんか」
と、祇園の道を訊いてきたあの少年であった。
千代が被っている学生帽をくれた少年でもあった。
少年も、それに気がついて、本堂の中にすたすた入って来ると、千代の前に座って、
「なんや。ここの生徒やったんか? 奇遇やな、ワシがやった学生帽被っとるんか」
千代は、何か気恥ずかしそうに急に大人しくなると、
「うち、あれからいろんなこと知ったんどっせ。百人一首も全部覚えたし、仮名も漢字も、中国の難しい本も読めるようになったの」
久太郎は、それを聞いて目をまるくすると、
「それは、すごい……」
そう驚愕して、
「和尚さん。この子連れて、教室の方に行ってもよろしい?」
住職は、それに対して快く許可を出すと、
「屋敷の方に行ってごらん。先生が、よっちゃんの体操手伝ってる」
「分かりました。ほな、行こか、ワシが寺の中案内したるわ」
少年はそう言うと、千代の母に対して、優しく会釈して、
「ちょっとした知り合いでして……」
「ほんに。それやったら、千代ちゃん、案内してもろうたら? お母ちゃんは、ここの説明、和尚さんから訊きますわ」
千代はそれを強く、うんと頷くと、久太郎と本堂を脱兎のように出て行ったのはあっという間であったが、母としては、千代が何故急にこんなに活発的になったかが少し理解出来て良かったと思った。
千代の中には、あの少年に認められたい、褒められたいという内心的な欲求があったのであろう。
もしかした、これは本人は自覚せずとも、娘の初恋なのかもしれなかった。
それが知れて、母は何か微笑ましく思った。


「千代、まずはここで出席の所に〇を付けるんや。簡単やろう」
久太郎は千代にそう説明すると、自分が最初に出席簿に自分の名前を探して紐のついた鉛筆で〇を書いた。
名簿には、約十名の名前があって、それが屋敷のがらんとした部屋の隅に置いた長椅子に無造作に置いてあった。
「千代の名前はまだ無いから、今日は練習で〇だけ書いといたらええわ」
「……こうやろか? 久太郎さん」
「上出来や。今日は、先生が、祇園祭の話してくれはるらしい。お前も、山鉾巡行や宵山には行くやろう」
去年の夏、祭りのクライマックスとも言うべき山鉾巡行の前日、千代は父に肩車されて、夜店屋台の出る宵山のあのごたごたした人込みの中を右往左往して、ようやく、組まれたばかりの祭りの花ともいうべき山鉾をすべて見て回ることが出来た。
山鉾は、大きな町内ごとに大きな腰をどっかと下ろすように往来に置いてある。
鉾は約十二トンあるから、傍に立っているだけで圧巻である。
町内ごとに、個性のある山鉾は、それぞれその町内の人たちが大切に守ってきた文化の一つなのである。
その中でも、千代の目に一番美しく映ったのは、下京区新町通綾小路下ル船鉾町にある、その名のとおり船鉾である。
神功皇后ゆかりのこの大きな船型の鉾は、さしずめ七福神が乗る、宝船のように豪華絢爛で、千代は、その場を通り過ぎても振り返り、振り返り眺めて、鉾との別れを惜しんだ。
「久太郎さん。うち、今年もあの船鉾を見てみたいなあ」
「そうか、千代は船鉾が好きか。ワシは断然、長刀鉾やけれどもなあ」
その鉾は、下京区四条通東洞院西入長刀鉾町にある。
山鉾巡行で、神事を行う稚児を乗せたこの長刀鉾は、巡行の際に一番先頭を走る。
屋根の上には天高く突き刺さるほどの長い長刀が付いており、その長刀が市内を回る間、八坂神社の方には決して、刃が向かないようになっている。祇園祭は、八坂神社の祭りであるからだ。
千代はその話を最近、神輿洗いの時に母に聞いて、
「ほんまに? ほんまに一度も刃が付いた方が八坂さんの方に向かへんのかなあ?」
と、疑問に思ったものだ。
母は、酷い邪推をする娘に、
「そんなに疑うんやったら、巡行の日に一緒に附いて行ったらええがな」
千代は、その話を久太郎にもすると、彼は探偵のように顎を手で撫でて、
「確かに、ワシも実際、調べたことなかったなあ。一度、調べてみる価値はありそうやで」
そう言うと、久太郎はふと千代の方を振り返って、
「お前、山鉾巡行の日、ワシと一緒に見物に行かへんか」
千代は一瞬驚いて、目をぱちくりすると、
「……それは、かまへんと思うけれども、お母ちゃんに訊いてみんことには……」
何か照れたようにもごもごしている彼女に、久太郎は何か生真面目に頷いてみせた。


その日、千代は母と一緒に塾を見学して、その斬新な従業内容に驚かされた。
皆から先生と呼ばれている京大出身の腰の曲がったお爺さんが、長い眉毛で隠れた目を時折、鋭く光らせて、生徒たちに質問する。
「今日は、祇園祭についてお話しする前に、皆には祇園祭について調べてきて貰ってきたと思う。まずは、基本的な事を爺に教えてほしいんじゃ。祇園祭とはいつ頃、始まった祭りかのう」
すると、十人いる生徒たちが、机から身を乗り出すように、
「はい! はい! はい! はい!」
と我を当ててくれと言わんばかりに激しく挙手して、騒がしくなった。
「コホン。 静粛に……。それでは次郎丸くん」
「はい。平安時代の貞観十一年ころに、疫病が発生した時にです」
「その通り。よくできました。では、その疫病を引き起こしたのは一体、何の祟りかと言われておったかのう」
その質問を受けた子供たちは、また、激しい声を上げて挙手をする。
「では、青山さん」
今度は、髪の長い粗末な着物を着た少女が慎ましく席から立ち上がった。
「はい。牛頭天皇です。牛頭天王は、須佐之男命と同一視されて、八坂神社のご祭神でもあります」
「うむ。そうじゃのう、よくできました。みな、よく調べて来ているのう。そうじゃ、祇園祭は、この牛頭天王が、祟りを起こして、全国的に病気が発生し、それを収めるために、行われたとされるお祭りなんじゃなあ」
この塾では、生徒が授業の半分を担うと言っても良い。
あらかじめ、予習をさせておいて、深いところは皆で、実際、京都の市内を回って、調べる。
歴史などには困らない京都ならではの勉強法だが、算数など、座学でないとどうにもならないものはどうするかというと、生徒たちは週に一度、丁稚時間と称して、京都の商家に足を運び、実際にお金の計算をして基本を学ぶ。
実際に、体を動かして、体で覚えるという勉強法は、子供たちの身に深く浸透して、日々、成長がめざましく素晴らしいものがあった。
千代は、見学会の帰り、何か高揚しながら四条通を母と手を繋いで帰りながら、何かことこと微笑みが途切れなかった。
「お母ちゃん。うち、あの塾、通いたい」
「ほんに。お母ちゃんも、楽しなって来たわ」
ふたりで微笑みながら、今日、塾の皆で行った、町内ごとの鉾立ての取材を思い出していた。
鉾立ては、七月十日から十三日まで、行われる。
一本の釘も使わず、屈強な男たちが、縄を使ってグイグイ縛って、組み立てる。
その鉾立てに、三十年間携わってきた、織部稲造という町会長は、子供たちが今日、取材に来るというので、特別にちご餅を用意してくれていた。
ちご餅は、細い棒に刺さった面持ち長方形の餅であるが、織部氏も子供が十一人いることに申し訳なく思って、慌ててもう一本買いに行くと言った。
しかし、子供らはそんなことせずとも、女の子が率先して、
「千代ちゃん。うちの、半分あげるね」
と、優しく分けてくれた。
先ほど、先生の質問に答えていた、青山早苗であった。
「ありがとう。早苗ちゃん」
「千代ちゃんは、これから寺の塾に通うん?」
「……うん。そうしたいんやけれども……」
織部氏と長い立ち話をしている母を遠くに観て、千代は静かに言った。
「お母ちゃんも、忙しい人やから……」
現実的に、まだ、小さい千代を塾に送り迎えするのは難しいかもしれない。
他の子どもたちは、自分で塾に通える小学校の三年生以上だ。
早苗は、その話を聞いた時、ふっと寂しい顔をした。
「そうかあ……。うちの塾、女の子少ないから残念やわあ」
「ごめんね。よくしてくれたのに、うち……」
千代のしょんぼりした顔が、傍の水たまりに呆けて見えた。
夕方の繁華街に明かりがつき始めて、黄昏時であるのに、お互いの顔がはっきりと認識できる。
こういうとき、何か相手のこころの状態も、こちらに響いてくるものだ。
そんな時、早苗がぽつりと言った。
「うちが、毎日、送り迎えしてあげようか」
「……え」
千代の顔が、水たまりから離れた。
「早苗ちゃん、そんなん悪いわ」
「ええのん。うち、寂しい子やさかいに……」
「早苗ちゃん……」
千代の学生帽のつばの視線から、早苗の何か諦めたような微笑が伺え知れた。
早苗のいう寂しい子と言う意味がどんなことを意味しているのか、千代には分からなかったが、早苗の、瞳には十歳そこらの子供には無い苦労の星が浮かんでいるようだった。
千代は、何故かそんな早苗にの手を強く握ると、
「……そんなこと言うもんやない」
と、年嵩のように窘めた。
早苗は、下をうつむいて、その黒目勝ちの目を伏せていたけれども、ほんとうは泣いていたのかもしれない。
「……ほんま、千代ちゃんの言う通りやわ。いかん、いかん」
ふたりは、しばらく、長刀鉾の前で夕日に光る刃を無心に見つめていた……。


祇園祭の宵山の日、藤つぼでは、客が立て込んで、去年のようには抜け出られないようだというので、千代は母と、祭りに出かけることにした。
朝顔の柄のかかれた浴衣に、可愛らしい真っ赤な帯を巻いて、背中の部分に、うちわをさして歩く。
今日は、狐のお面を買うので、学生帽は家に置いて来た。
幸子もこの日は、おめかしして、いつもよりも濃く、白粉をはいて髪もわざわざ美容院でセットしてもらった。
祇園でも有名なその美容院の女将は、幸子の髪を作りながら、最近は、忙しくて、自分自身が美容院に行けないと言っていた。
「へえ。ほんに、それでも、外国のお客さんも増えて、大変どすなあ」
「増えた言うても、ちょっとやさかいに、別にかましまへんのやけれども、この歳で、金髪を芸者風に結うことになるとは時代も変わりましたなあ」
そう冗談を言って、どこから噂を聞き付けたのか、
「そう言えば、お嬢はん、寺の塾に通わはるんどすてなあ」
大きな鏡を前に、雑多な美容器具が並んだ台にドライヤーを置いた女将が、エプロン姿で笑った。
「もう、噂になってますのん」
「へえ。あの大人しい千代ちゃんが、最近、近所のガキ大将になった言うて、皆で話してましたんや。学生帽、えらい可愛いなあ言うて、トレードマークやなあ、言うて」
狭い土地であるし、幸子は、あんまり千代にやんちゃをしないでおきなさいというべきであったと少し、渋い顔をした。
それでも、今宵、逢う人、逢う人皆が、言うのである。
「千代ちゃん。今日は、学生帽、被ってないの? がっかりやわあ」
そう言って、カメラを持っていた近所の叔母さんが、千代の頬をつついて、
「最近は、これだけが楽しみやのに……」
千代は期待に応えられなかったことを、謝るように、
「今度の、町のお祭りでは被って来るから、かんにん。おばちゃん」
そう言って、被っていた狐のお面を頭の後ろに回しておどけて舌を出した。
近所の叔母さんは、それでも千代の可愛さには変わらないからと、ニ三枚、写真を撮って、満足して帰って行った。
提灯が市内を張めぐらされて、煌々と輝いている。
今年は、八十万人の人が、この祇園祭の宵山を楽しんでいた。
浴衣に、リンゴ飴を持った少女が、何か一心に、コンコンチキチン、コンチキチン……というこの祭り特有の音を耳を澄まして聴いていた。
「よっしゃ、ガキども、よう見とけよ? 独楽はこう回すんや」
ねじり鉢巻きのはっぴを着た切符の良いお爺さんが、子供らの前で、人の顔程あるかと思われる独楽を勢い付いて回していた。
千代もその独楽を回さして貰ったが、持つだけで重くてうまく回らない。
「お嬢ちゃん。呼吸やがな、呼吸」
お爺さんは、そう言って、千代の後ろに回って、独楽の紐をひょいと投げ出した瞬間、周りの人たちが手を叩いて笑った。
「うまいなあ。お嬢ちゃん」
「爺さんよりも、うまいんちゃうか」
目の前の地面で、大きな独楽がグルグル回って、今日一番の勢いで回っていた。
お爺さんも満足して、
「お嬢ちゃんに、今日から弟子入りするわ、ワシ」
その瞬間、人の好い京都の人たちがどっと笑った。
千代も、何か楽しくなって手を叩いて、けらけら笑い、飛び跳ねた。
幸子は、娘がまちのひとたちにこんなにも愛されているのが何よりも嬉しかった。
千代のこころが少しずつ、明るく、強くなるにつれて、母も正しい人生を歩めるような気がした。
千代はその後も、いろんな露店や、学業成就のお守りを買ったり、山鉾を見て回った。
そうして、夜の九時前に祇園に戻って来ると、いつもの白川が、いつもとは違う情緒で、千代の目に映った。
明るい提灯の明かりの下で、何かこころを表すような美しい水面に、ふとあの時と同じ、笹舟が川上から流れて来た。
「お母ちゃん。誰かが、この先で、笹のお舟、作ってはるのと違うやろうか」
「ほんに。今日は、子供らも外で夜遅くまで遊んでるるから、笹舟はその証拠かもしれへんな」
ふたりがそんな会話をして、しばらく、白川の欄干から、下を覗いて、一定間隔で流れてくるその笹舟を指さして見ていると、
「千代ちゃん……」
何か、寂しい風が耳の脇を通り過ぎるような声で、誰かが彼女の名を呼んだ。
千代が、おや? と振り返るとそこに立っていたのは、思いがけず、早苗であった。
背中に、乳呑児をくくりつけて、足は裸足であった。
「早苗ちゃん? 早苗ちゃんやないの。ここら辺の子やったの?」
千代が、綺麗な浴衣姿で早苗の方に駆け寄って行くと、早苗は静かに後ずさりして、
「千代ちゃん……。うち、お風呂入ってないから、近づかへんほうがええ」
「お風呂に?」
早苗の裸足の足が、砂で酷く汚れていた、親指のツメから俄かに赤い血が滲んでいた。
赤い血は半分固まり、提灯の明かりに怪しげな光沢を湛えていた。
「早苗ちゃん……。なんかあったの?」
「え……? う、ううん。何でもないの。ほんなら……」
そう言って、悲しい視線の余韻を残したまま、夜の花見小路を出て行く早苗を、千代は何か危なっかしいものでも見るように見ていた。
月が大きな明かりとなって夜のこころに浮かんでいる。
千代は、自宅で中庭沿いの廊下に腰かけて、しょんぼりしたように肩を落としていた。
どこかでまだ祭りの騒がしさが響いている中、早苗は、どこへ行くというのだろう。
「お母ちゃん。うち、悪い事してしもうたかもしれへん」
後ろで、夕食の後片付けをしていた母がを振り返った千代が、憂い顔で言った。
「早苗ちゃん。なんか、悩みごとでもあるんとちがうやろうか」
母は、盆に食器を重ねながら、
「そやかて、千代ちゃん。よそさんのこと、どうにかできますかいな? 家庭の事情かもしれへんねんで」
「……そうやけれども」
「今度、塾行った時に、仲良うしてあげることが一番の救いよってにな」
母はそう言うと、
「この世界には、どうにもならへんことがある。それをかえたかったら、偉なりよし」
「おなご初の総理大臣かいな」
「もっとや」
「むちゃ言いますなあ、お母どん」
何れにしても、千代にはその資質があると思う母のこころは、長刀鉾の長刀よりも高いところを見ていた。
女性は、美しいのは間違いない。
しかし、強い女性が居ても良いじゃないか。
唯、忘れていけないのは、どんな人間でも、優しさを忘れてしまってはいけない。
人間的な魅力とは、男性らしさ、女性らしさに裏付けられたものではなく、人間らしさに値するものだと幸子は思っていた。


翌朝、朝、八時ごろ、千代の自宅に小学生用のつめ入り学生服を着た久太郎が、彼女を山鉾巡行見物に誘いにきた。
千代は、昨日とは違って、いつもの袴姿になると、
「久太郎さん。おまっとうさんどす」
何かうきうきしたような赤い頬で玄関先から出て来た。
今日は、学生帽も被っているので、いつもの千代である。
「おばさん。千代さん、お預かりします」
「へえ。気負付けて。久太郎さん、千代ちゃん」
幸子は、石畳の道を仲良く並んで、歩くふたりの後ろ姿に思わず涙が零れそうになった。
何か、娘が嫁ぐ日を、今から見るようで感動的であった。
いつもの白川沿いの道をよく晴れた白い日の光りを浴びて、柳の木がきらきら揺れていた。
久太郎は、家を出しなに、自分の父から小遣いを少し貰っていた。
「ええか。腹が減ったら、これでうどんでも食うたらええわ。その時は、お嬢はんには気を遣わしたらあかんぞ」
西陣織の職人として、堅気を通してきた久太郎の父は、生真面目な反面、優しいところもあった。
久太郎自身がどこか女の子に優しいのは、そういった父の教育の賜物であったのかもしれない。
兎にも角にも、久太郎としては、父の言いつけをしっかり守るつもりで勇だって来たのである。
昨晩の宵山の名残か、祇園の軒の低い家々の前には、紅い番傘が広げて、置いてあった。
千代はその番傘を覗いてみると、中に子猫が隠れていた。
「久太郎さん。子猫も、ようわかったはるわ。傘の下には入るもんやて」
「昨日の夜は雨が降ったからなあ。それでも、朝山の日は必ず、何があっても晴れるんや。神さんの力やてお父ちゃんが毎年言うたはるねん」
久太郎はそう言うと、向こうに見える大通りを指さして、
「ワシは、将来、神さんに負けへんくらい偉なるんや。この世から、悪をなくすんや」
千代は、その時、はじめて久太郎の願いというものを知ったような気がした。
この世には、大義名分という言葉があるが、久太郎は弱きを助け、強くを挫くという理念のもとに、子供ながらに必死になって戦っているように見えた。
それに比べて、まだ小さい千代には、漠然とした理想というものがまだ、明確な種となってそのこころに植えられてはいなかった。
自分もあの寺の塾に通えば何かが変わるかもしれない。そういった感情の中で年上の久太郎から刺激を貰うのは良い勉強になった。


四条烏丸に、山鉾がずらりと並んで実に静観である。
今年も抜けるような青空の中、沿道には何十万人もの人が、今かまだかと首を伸ばして山鉾巡行の始まりを待っている。昨日、お囃子をじっと聴いていたリンゴ飴の少女も、母親と一緒にその沿道に来ていた。
「おーい。こっちや、こっち」
朝の八時半ごろ、久太郎と千代は、くじ改めのある四条堺町の前に来ていた。
彼らよりも早くに、近所の大人たちが場所取りをしてふたりを待っていたのである。
待っていたのは、商工会議所で働く、長砂鱒二と着物やの主人の片岡洋一であった。
ふたりとも、浴衣がけに首に手拭いを巻いて、朗らかな笑顔であった。
「よう来たな。そのお嬢ちゃんが、久太郎の彼女か?」
「ち、ち、ちがうわい。この子は、ワシの妹分や」
あまりに久太郎が動揺するので、千代はあっけに取られてどぎまぎしてしまった。
「ハッハッハッ。まあ、ええわ。お嬢ちゃん、昨日は楽しかったなあ?」
千代は呆けた顔で目をぱちくりしていたが、ふっと記憶がよみがえって来て、
「ああ。独楽、教えてくれたお爺さん」
「ハハハ。覚えていてくれたんか? 嬉しいなあ」
そう言って、濃い白髪交じりの頭を気恥ずかしそうに撫でた。
着物やの主人である片岡洋一は、この縁ある出会いに面白がって、
「お嬢ちゃん。センスのええ帽子被っとるなあ。さすが、ワシの師匠や」
千代は、何だか人の好さそうなこのお爺さんに何か懐かしみを感じて、
「この学生帽の良さが分かるんは、ツウの印どす」
と、冗談を返して笑った。
久太郎は、目をぱちくりして、二人の関係は一体何なのだろうと、不思議に思った。
しかし、よくよく事情を聴いて、世間は狭いものだと感慨深いものを感じた。
「千代。ワシらももしかしたら、狭い世間の何かの縁なんかもしれへんな」
大人たちがおしゃべりに夢中になっている時に、久太郎がそう言った。
「……へ? なんか言った? 久太郎さん?」
「ううん。なんでもない。ほら、鉾が動き出した……」
エーンヤラヤア!
男たちの掛け声で、鉾がその重厚な木の車輪を動かし始めた。
人々が、あっと息を呑んで、その方に視線をやった。
千代も長刀鉾の屋根の上に立つ刃が、俄かに揺れる瞬間を見た。



秋の嵐山は人々の文化的な美に対するこだわりが木霊するようである。
千代はその日、母と秋の嵐山に訪れると、車夫に頼んで人力車に乗り、嵯峨野方面を紅葉の色にそって、観光に出かけた。真っすぐに青く、強く伸びる竹林の中を固い地下足袋をはいた車夫が、重い人力車を引いて息も切らさずに走るのは圧巻であった。
「ご婦人。今頃は、トロッコが、綺麗ですよ。保津峡の辺りはもう紅葉の見ごろなんです」
「へえ。千代ちゃん。行ってみよか」
千代は、嵯峨野トロッコ列車に乗るのは初めての体験であった。
それ故に、想像していた以上に車体がしっかりしていて驚いた。
線路に、紅い乗り物がコトコト走って来る……。
ホームで、それを見た瞬間、欧米人の若い男女が思わずつぶやいた。
「イッツァ、キュート」
千代もそれにつられて、目の前にカシャリと止まったトロッコを見て、感嘆した。
「キュートどすな」
トロッコはこれから二十五分かけて、嵐山を行くのだった。
目下に流れる川の猛々しいところと、岩にぶつかる水のしぶきが遠くに見えて子供にはひどく刺激的であった。
山々の色は秋の赤だけではなく、橙や、まだ赤にもならない緑の葉の色で美しく、千代思わず瞳が大きくなった。
「見て。お母ちゃん、お舟が見えるわ」
「ほんに。保津川下りやなあ。手、振ったはるわ」
千代も着物の袖から腕が出る程に、
「ほーい」
と手を振った。
他の観光客も千代ほどではないものも、手を振って楽しんでいた。
きっと、こういう体験が人間の趣向を豊かにするのであろう。
その日の事を、寺の塾でも話すと、早苗が、
「天龍寺には行かへんかったん?」
と、前の席から振り返って言った。
「天龍寺には行かへんかったけれど、人力車にはのったんどっせ」
「へえ。それは風流やのう」
いつも鼻持ちならない次郎丸泰時が、人を見下すように千代の机に腰かけて、鼻を鳴らして言った。
千代は泰時に小馬鹿にされるたびに、身を切られる思いがする。
頭の良い彼には、何を競っても勝てない気がするからだ。
彼女が、小さくなって顔を伏せてしまうと、泰時はまた鼻で笑って、
「自慢話はなあ、ひとりでトロッコ乗れるようになってからにせえや」
泰時がそう決定的な事を言った時、誰かが彼の肩をどんとぶつかってきた。
「痛い。誰や!」
振り返ると、そこに恐ろしい顔をした久太郎が立っていた。
泰時は、ぶつかられた肩を摩りながら、
「お前、ワシに逆らってどうなるかわかってるんか」
「どうなるっていうんや。また、親父さんに言いつけるんか」
泰時の父親は、京都職人商会の会長を務めている。
それ故に、その息子の泰時は、虎の威を借る狐のように父親の威厳で普段から、威張り散らしている。
開け放された教室の外の紅葉が、不穏な風でガサガサと揺れた。
にらみ合う少年二人を前に、千代は、あわあわと、どうすることも出来ず、緊張して固まってしまった。
周りの生徒たちも、二人の間合いに踏み入る事ができないでいる。
「久太郎。ワシと勝負せい」
「望むところや」
千代は、いよいよ大変な事になってしまったと、その場で顔をはたと両手で隠してしまった。


「千代ちゃん。別に千代ちゃんが悪いわけやなのよ」
塾からの帰り道、夕日に染まる往来で、早苗が千代を慰めるように背中をさすった。
呉服屋の店頭に紅葉の模様をほどこした着物が飾られるようになって、千代は帰り道でもいつもその美しさによりみちして帰るのであるが、その日は顔面蒼白で気が落ち着かぬ風だった。
それに反し、早苗はぷんぷんと先ほどから怒って、
「それにしても、二人とも何考えてるんやろう。次の試験の結果で負けた方が、塾をやめるなんて、あほらし……」
早苗のそういう愚痴も、千代には届かぬ風であった。
それ故に、四条通を独楽のお爺さん事、片岡洋一に、
「おお、師匠、師匠やないか」
と、声をかけられても、最初は、気が抜けていて気がつかず
「ちょっと、千代ちゃん。あんた、呼ばれてるで」
と、早苗に肩を叩かれるまで、自分が遠い秋風の中に入ってしまった事に気がつかなかった。
「あ。かんにん、お爺さん」
「なんや、何か悩みごとか?」
片岡は、その日、この秋、京都のホテルで催される着物の展示会の準備のために朝から、背広姿であった。
普段、和服姿になれている彼は、ネクタイを締めるのも鬱陶しく、ホテルを出るともう早々に、ネクタイを外して襟元のボタンも涼しげに外していた。
「千代ちゃん。どないしたんや。泣き出しそうな顔して」
「……お爺さん」
千代は、知り合いの大人にあった安心で今まで張りつめていた緊張が途切れ、その場で、わあっと泣き出してしまった。
「ああ、おお、ワシは女の子に泣かれると弱いんや。よしよし」
片岡は千代を抱っこすると、早苗の方を向いて、
「取りあえず、お嬢ちゃんもいっしょに帰ろか」
早苗は、何か不思議な安らぎをこの片岡に感じた。
夕映えに、烏の色が山に消えて行く……。
八坂の塔が色をなくして、人々の足も消えるのはもっと後のことではあるが……。


「えらいすいません。千代、さあ、こっちおいで」
玄関先で、片岡からぐずぐず言っている千代を受け取った幸子は、
「よしよし……。もう泣かんといて」
と、自分の首元に縋りついて泣いている娘の背中を優しく撫でさすった。
その様子を、早苗が何かもの欲しそうに瞬きもせずに見上げている。
「片岡はん。なんと、お礼を申し上げたらええのんか……」
片岡は、そう気兼ねして何度も頭を下げる幸子に、いやいやと手の前で手のひらをひらひらさせると、
「まあ、詳しいことは親子で話おうてください。さあ、ワシらはもうお暇しようか? 早苗ちゃん」
「今度、おうちに寄らさせて貰いますさかいに……。ほんまに失礼しました」
幸子は玄関の板敷きにきちんと手をついて、何度も頭を下げてふたりが帰って行くのを見送った。
早苗は、片岡と並んで、夕映えに影が長くなるのを感じながら、振り返り、振り返り後ろを何度も向いた。
痛いほどに、千代の母の献身に心打たれたからだ。
「お爺さん……。うち、なんか千代ちゃんのお母さんが可哀そなって来たわ……」
片岡も、過度に気を遣われる事への申し訳なさで、いつまでもその場に居られなかったほどであった。
「早苗ちゃん。次の通りで右に曲がるで……」
「……右に?」
「そう……。いつまでも、玄関からワシらの姿が見えてたら、千代ちゃんのお母さん、いつまでたっても息がつけへんからなあ……」
早苗は、わりかし背の高い片岡の顔を下から見上げて、その瞳に秋の悲しみが映り込んでいる様で寂しくなった。
庭師であった早苗の祖父は、二年前に高い市内でも有名な桜木の枝切りの際に足を滑らせて地面に転倒し、腰を打って今でも家で、ほとんど寝たきりの状態で居る。
祖父の看病で、母は疲れ切り、昔のような美しい容姿はすたれ、今では幽霊を見るように痩せ細ってしまった。
それに比べて、片岡は七十の歳で、いまだに現役で仕事を頑張り、千代の母ときたら、三十を少し過ぎた歳だというのにまるで女学生のような艶があった。
「それやのに……うちの家族は」
早苗は何か情けなくなって、沈みゆく太陽の大きさを涙に滲ませると、ふと片岡が言った。
「人間は、見た目では美しさははかれんぞ。早苗ちゃん」
早苗は、その瞬間、驚いて片岡の顔を見た。
「……お爺さん」
片岡が太陽に向かって、目じりにシワを作りながら、にッと笑っていた。
遠い山の秋は、深錆び色の光りで遠い憧憬を浮かばせていた。
時おり、黒く渦巻いているのは、その山に帰る烏の群れであろうか……。
早苗は、何かどこからか聞こえるお寺の鐘の音を聴きながら、歌を唄いたくなった。
「お爺さん。美空ひばり、うち、歌えるで」
「ほう。東京キッドか」
「うん。お母ちゃんが、よう、歌ってるわ」
早苗の透き通るような歌声が、京都の細道を麗らかになびいて行く。
その様子を、玄関先の縁台将棋で勝負に夢中のステテコ姿のおじさん二人が、にこにこしながら満足げに聴いていた。
豆腐屋のラッパの音も遠くで聴こえていた。
午後四時半を少し過ぎていた……。


千代の父、善三が経営する料理屋、藤つぼに、次郎丸泰時の父、村正がよく芸妓を連れて食事しに来ていた。
村正は藤つぼを訪れる時、必ず、カウンター席を貸し切った。
芸妓はせいぜい三四人ほどで、酒が入るといつも赤ら顔で箸を指揮棒代わりに古い歌を唄いだす。
「支配人。もっと、酒や。ワシはあの片岡洋一にさき越されて、もう飲まなやってられへんのや」
片岡が一流ホテルでの着物の展示会を村正よりも先に決定したことが何よりくやしいらしい。
善三は、隣で彼のコップにお酌をしながら、憂い顔で笑った。
「旦那はん。あんまり、酒にのまれなはんなや。息子さんもまだ小学生やのに体壊してどないなる」
「けッ……。あの小僧、外で親に内緒で偉そうなそぶり見せてるらしい。たしか、支配人のうちのお嬢ちゃんも同じ寺の塾やってなぁ」
昨晩、善三は千代が泣いて帰ってきた理由を聞かされて、渋い顔をしたものだ。
「そやかて、旦さん。今から意識を高するのはええことどっせ」
村正の右隣に居た芸妓が、品をつくったような声で、口をはさんだ。
祇園でも一二を争う程の艶を持つ、はつ駒という名の女だった。
「ぼっちゃんには、風格があるんどす。トップにたたはる人のお顔どっせ」
その言葉を聞いた村正は、酒のつがれたコップを見て、深く息をついた。
「それやったらええんやけどなあ……」
何か寂しい心がうかがい知れるその溜息に、他の芸妓らは思わず顔を見合わせた。
「とにかく、旦那はん。今日は帰った方がよろしおす。もう夜もふけてきましたさかいになぁ」
善三にそう肩を叩かれた村正は、目をしょぼしょぼさせると、
「今日は帰りたない……ここでずっとたそがれてたい」
家族の顔がちらちらと頭に浮かぶらしかった。
若い妻とまだ幼い息子の将来を案じると、自分の老いに対する苦しみがふつふつと込み上げてくるらしい。
それでも、ニ十分ほどで店を出ただろうか……。
芸妓たちを車に乗せて、自らもその車に乗ろうとした時、店の近くまで村正を迎えに来ていたのは息子の泰時だった。
こんな夜遅くに、一人で来たのだろうかと、村正が寄って行くと、泰時が何か沈んだ顔で下をうつむいて言った。
「お父さん。塾の仲間をケガさせてしもうた……」
「何と……!」
村正は、とっさに癇癪まじりに手を振り上げて息子の頬を打とうとした。
しかし、間一髪のところで善三が中に入って、
「子どもを殴っても、ええ子には育ちまへん。旦那はん」
その言葉で、村正はハッと我に返ったが、しかし腹の収まりが付かなかった。
自分の頭をかばうように縮こまる息子に背を向けた村正は、そのままひとり車に乗り込むと、
「……反省するまで、帰って来るな」
そう冷たくあしらってそのまま、夜の花見小路を突き抜けるように行ってしまった。
その場に残されたのは、柳の木の寂しさと、月の明かりだけだった。


「ただいま……。帰ったで」
善三がいつもよりも遅くに自宅に帰って来ると、もう十二時過ぎだというのに、千代が起きていて玄関先へとばたばた走り寄ってきた。
「お父ちゃん。どないしたの。あんまり遅いから、うち……」
父が玄関の板敷きに上がるのと同時に、千代はそこで思わず固まってしまった。
いつも意地悪ばかりしてくる次郎丸泰時が、父の後ろに隠れるように立っていたからだ。
「泰時、クン……?」
「ああ。いろいろ事情があって、今晩、ウチで預かる事にした。千代、それよりまだ起きてたんか」
千代は、何かちぐはぐな気持ちで、視線をどこに持って行ったいいのか分からず、おろおろしていた。
泰時も普段と勝手が違うのか、何かかしこまって、最初に、
「おじゃまします……」
と頭を下げて言ったきり、怯えたようにまともに千代を見なかった。


部屋に上がると、泰時は最初に幸子に折り目正しい挨拶として、畳に額がつく程の勢いで、
「急にお世話になりまして申し訳ありません……」
と、謝るように頭を下げた。
幸子は、そんな泰時を不憫に思って、
「ええのんどっせ? 気にしんといてください。ちょっと、遅いけれどもあたたかいご飯食べて、お風呂入って今日はゆっくり休んでな」
泰時は、ただ頭を垂れたまま、ぽろぽろ涙を零して、
「すみません……。すみません……」
と繰り言のように何度も感謝の言葉を口にしていた。
千代は傍でその様子を見ながら、何か意外な事だと思って、身がつまされる思いだった。
いつもは威張り散らしていた彼が、ほんとうは儀に満ちた正しい子供だと知った今、いままでされたイケズが、彼なりの強がりだったのかもしれないと思えた。
畳に滲む泰時の涙が、そう教えてくれた気がした……。
人には人の事情がある。
千代が、彼から学んだ心である。


翌朝、千代が目を覚ますと、いつもと違うみそ汁の出汁の香りが振り返った廊下の先からかぐって来た。
奥本家の味噌汁は、煮干しをふんだんに使って、お椀を両手に持って呼吸をするように、鼻に近づけると、それだけで五臓六腑に染みわたるような優しさがあった。
それは、幸子がここに嫁いできた時に、善三の母、八千代に最初に教わった料理であった。
「幸子さん。お味噌汁は、心を込めて拵えな、すぐに家のもんは体が壊すよってになぁ、良い塩梅を見つけて、うっとこの味を見極めてくれやすな」
幸子は、正直、味噌汁に対してさほどこだわりもなければ、考えもなかったので、それほど八千代の言っている意味をあまり深く考えなかった。
しかし、彼女が、台所に立つようになって、あきらかに、善三の体調が暗くなってきた。
玄関に何か肩を落として座っていると思ったら、こころなしか影が薄いように感じる。
藤つぼの経営も、何かしっくりいかないことが多く、悩んでいるようだった。
「お母さん。うち、どないしたらええのんどっしゃろう……」
切羽つまって、八千代に泣きつくと当時、七十を超えたこの腰の座った老婆は、手を取るように幸子を台所に連れて行って、
「うちの味を完璧に体に染み込ませるようになったら、この家の家運もまた上がる」
幸子は、それでも何か疑心暗鬼に、
「ほんとうに、それであの人の影が戻ってきはりますやろうか?」
「大丈夫。食は、魂やさかいに、大事にする家庭は、必ず影もよみがえる」
幸子はその言葉にごくりと息を呑むと、自分を引き込むような八千代の深い瞳にすべてを賭けてみようと思った。
それから、三ヶ月は、戦いであった。
すべての献立を覚えるのに、命をかけたと言っても良い。
そうして心を尽くし、魂を込めて、愛情を入れて、拵えた最初の味噌汁をお椀を両手に持ってすすった時の善三のあの顔は今も忘れられない。
「……命がよみがえるようや。美味いなあ」
その瞬間、消えそうになっていた善三の影がもりもりと蘇るようにその目に確認できた。
幸子は、あまりの感動に涙が零れて仕方がなかった。
その話を、いつであったか聞いた事のある千代は、この味噌汁のにおいが、幸子ではない違う人間が作っているのだ直ぐに気がついた。布団を二つ折りにして、隅に引っ張って行って、寝巻の浴衣のまま廊下を抜けて、台所の方に行くと案の定、火の前に立っているのは母、幸子ではなく、なんと割烹着を着た泰時だった。
ぐつぐつと鍋の中から湯気が立ち込めて、煮干しの出汁の香りが千代の鼻に強くかぐった。
千代が、なんとなく声をかけられずに後ろでまごついていると、後ろから、
「あら。千代ちゃん、もう起きてたのん」
母が、明るい様子で千代の薄い肩に両手を置いた。
その瞬間、泰時がその声に反応してハッと振り返った。
目が合うふたり。
千代は、しばらく盗み見ていた事への恥ずかしさで顔を真っ赤にさせると、おろおろしてしまったが、思いがけず、「千代ちゃん。おはよう」
と、泰時が笑顔であいさつした時は、千代もこちらが悪いような気がして、言葉を返さずにはいられなかった。
「泰時くん……お味噌汁、作ってるのん」
「そうやで。美味しいかどうかは分からへんけれども……」
彼が言うには、家でも毎日、朝の食事は泰時が作っているのだという。
彼の母親は、近頃、神経衰弱で布団からあまり出られないのだという。
「そやから、ワシが何でもせなあかん。女中言うても、次郎丸の味を知ってるのは誰もおらへんからなあ」
そうしみじみ言いながら、泰時は、再び台所の前に立ち、盆に乗せたお椀に、おたまで鍋の味噌汁を注いでいく。
千代は、そのお椀の方に進んで寄ってくと、お盆を手に取って、
「これを、運んだらええのんやね」
「持って行けるか? 千代ちゃん」
「大丈夫。運ぶのんは、うちかていつもお手伝いしてるからな」
その言葉の通り、千代は手慣れたように味噌汁の乗った盆を居間に運んで行った。
しかし、一つ盲点があった。いつもは三人分の重さの味噌汁だったのに、四人分になると勝手が違う様で、廊下の先でオトト……とよろけて零さないように身構えた瞬間に、腰から崩れてバシャン、と味噌汁を豪快に盆から零してしまった。
とたんに真っ青になる千代。食器の転がる音を聞いて慌てて、駆けつけた母が、すぐに手ぬぐいを持ってきて、
「大丈夫かいな……。火傷してない?」
「う、うん……。それより」
千代が、申し訳なさそうに窮屈しながら廊下にまき散らした味噌汁を手拭いで拭きながら、ふと台所の方から視線を感じて振り返ると、そこに何か悲しそうな表情でじっと黙って立っている泰時が居た。
千代は、その目の中に失望というものというよりも、遠い何かを思い出しているのではないかと思う程に少年のうつろな心情が伺えた。


「千代ちゃん。大丈夫か?」
「う、うん……。泰時くん、かんにん。うち、どんくさい事してしもうて……」
廊下を拭き終わった後、泰時が今になって千代を気にして声をかけて来た。
幸い、味噌汁はまだ鍋に残っていたので良かったが、千代はすっかりと自分の粗相に自信を失って、食事のあとはいつもの縁側に座って、溜息ばかりついていた。
泰時は、そんな千代を気にして隣であぐらを掻いて、じっと石灯篭の秋を見ている。
「昨日……ワシ、久太郎の手、血が出る程つねってしもたんや……」
不意の告白に、千代は、ゆっくりと彼の方を振り向いた。
「また、ケンカしたのん?」
「うん、まあ……。でも、今回は全部ワシが悪い。酷いこと言うてしもうたからな」
彼が言うには、泰時は久太郎の父の作る西陣織をぼろ衣と揶揄して、笑ったのだという。
西陣織は、京都の高級織物として、職人が丹念込めて一反一反織っていくから、値段も、相当にすることもある。
その職人と言えば、それなりに自分の仕事に誇りと自尊を持って生きているので、ぼろ衣などと揶揄される言われはないと思うだろう。
しかし、久太郎は、それをとがめなかった。
「お前がそう思うならば、そう思えばええ。でも、ワシはそうは思わへんけれどもなあ」
そう涼しく言って、塾の机に向き直った時、泰時は、一瞬、自分を軽んじられたと思った。
気づいた時には、久太郎の手の甲を、爪を立ててつねっていた。
自分の爪に泡とともに濃く付着する久太郎の真っ赤な血液。
肉のえぐる勢いが自分でも分からないほどの刃で突き刺さって行く。
周りの者は、その様子に気が付かなかったほど静かな戦いであった。
久太郎は、その日、塾を早退し、残された泰時は放心したように、自分の親指に残った乾いた血の色をじっと見ていた……。
彼は、その後相当に悩みあぐねたのだろう。母にも言えず、塾の帰りに家に帰らず、京都の市内をただ、あてもなくさまよい続けて、遂には、父の行きつけにしている店の前まで来てしまったのだ。
「泰時くん……。これから、どうするつもりなん」
「分からへんけれども……いつまでもここには居てられへんし、昼には出て行こう思うねん」
千代はそう言われて、廊下側から部屋の柱時計を見た。
十二時になったら、小鳥が飛び出る仕掛けの時計である。
今見ると、朝の八時。彼は、後数時間もすれば、この家から寂しく出て行ってしまうのか……。
千代は、再び向き直って、
「泰時くん……。ここ出て行っていく当て何かあるのん?」
彼は、何か思いつめたように膝を抱えると、
「仕方がない。悪さした報いや。これからは、四条大橋の下で暮らすしかないかな」
鴨川沿いに、掘っ建て小屋を建てて、そこで住むのだという。
そうして、その小屋で自分は寂しく死ぬのだという。
泰時は、何か涙を目に一杯に貯めて、
「ワシなんか生まれてこうへんかったらよかったんや。こんな役立たず、野垂れ死んだらええんや」
そう激しく自分を責める彼の心を聞いていると、千代も何か泣けてきた。
「そんなこと言わんといて……。うちが何とかしてあげるさかいに、死ぬなんて言わんといて……」
その時、例の石灯篭の上にどこからか青い鳥が飛んできて、チチチッと鳴いた。
まるで、幸福はあなた達を見捨ててはいないという何かの暗示のように感じた。
千代のこころが激しく老婆心で揺り動かされたのはこの瞬間だった。


その日、次郎丸村正は、自宅で女中に着替えを手伝って貰ったあとで、玄関を出しなに、帽子置きからハットを取ると、
「泰時が帰って来ても、容易に家に入れんことや。分かっとるやろう」
若い女中は、その言いつけに少々、戸惑いながら、
「へえ。承知しました」
と、声高に言った。
本日は、次郎丸商店の二百周年における催しを考える会議があって、村正は朝から息巻いていた。
玄関先にとまっていた黒塗りの車に乗り込むと、
「帰りは遅くなる。家内の事をよろしく頼む」
何か慎み深い懇願のように女中にはきこえた。
西陣に大きな看板を構えた次郎丸の家は、名家として血筋から市会議員を今までに十何人も出した。
その信頼から、店も大きくなり村正自身も職人役会の会長を務めるにふさわしい人望を集めている。
車が細い道を走り去ったあと、女中は、深く息をついて格子に寄りかかり、また息をついた。
この家に居ると心が休まらぬとは言ったもので、まだ若い二十歳のこの女中は、家に縛りついて働くにはいささか美しすぎた。
元々、花嫁修業のために、高等学校を出た後にここに来たこの女中の名を美奈子といった。
美奈子は、初め十八の時点で許婚がいて、直ぐにでも結婚の運びとなっていたのであるが、相手の男からこんな注文が来た。
「僕は、美奈子さんになんの不足もないが、京都のしきたりを覚えておいてほしいという願望はあります」
どういう事かというと、男の母親、つまり美奈子の姑が祇園甲部の出身で、その方の作法はしっかりしている嫁に来てほしいという打診を息子からしてほしいと言って来た。
そのために、美奈子は三年の契約で、次郎丸の家に女中に雇い入れて貰ったという話であった。
それにしても、面白くないのは、この家がどこかぎすぎすした固い不和で、辛うじて家庭のなりをしているという危うい感覚にあるという事だった。
家の前で打ち水や、箒掃除などをしていると、体の悪い奥さんが出て来て言うのである。
「美奈ちゃん……。泰時が帰ってきたら、優しくしてあげとくれやす。わたしは、何もできひん身やさかい……」
美奈子は、村正から厳しい言葉を貰っていたので、どうしたもんかと考えて、
「へえ。お腹も空いたはりまっしゃろうことどすから、海苔巻きでも買って……」
「それやったら、ついでに錦にグジでも買って来てあげて。あの子、あのお魚が好きやの」
グジとは甘鯛のことである。魚屋で、注文しておくと他の買い物に行っている間に焼いといてくれる。
美奈子は、心もとない家にいるよりも外に羽を伸ばしたい娘であったので、
「へえ。お遣いどすなあ。ついでに、お野菜も買ってきます」
そういうと、あっという間に割烹着を脱いで、青い銘仙に着替えたのは彼女のはやる心をあらわしている。
玄関先で、日傘を広げた美奈子に、青白い顔した奥さんが、格子に手を置き、
「その恰好で、寒ない? あたしの羽織貸してあげましょか?」
この痛いほどの心遣いに、奥さんの優しさが窺い知れる。
美奈子は、笑顔で大丈夫ですと気丈に言うと、
「ほな、行って参ります」
と、青い空を見上げて、眩しい顔をした。
「今日もよう晴れて……竜雲が立ってますわ」
西陣では、どこからでも機械織機の音が耳を騒がせるようにガシャンガシャンときこえる。
昔は、皆手織りであったが、今では機械化が進んで、本当の意味での職人は居なくなったと言われている。
しかし、例え、機械化が進んだ工芸産業であっても、人の手が入らないものは何処にもない。
西陣織は、まさにその最たるもので、美しい模様を作るのに人の図案が生きてこそ、一反の美がそこに咲くのである。
美奈子は、そんな職人を多く抱える西陣のまちで息づく、皆のこころと、次郎丸家の雰囲気がいつか憤慨に向かわないかと心配であった。


錦小路にある錦市場では、狭い中にいろんな食材を置いて賑わっていた。
高い天井を見上げると緑、赤、黄の光りあるステンドグラスが張られている。
高倉通と、寺町通に挟まれたこの商店街は、京の台所として、行けば大抵のものがそろうと言われている。
四百メートルほどの長い石畳の道の両脇には、魚屋、八百屋、京漬物屋、鶏肉屋、揚げ物屋、乾物屋、果物屋、花屋など、中には包丁を扱う店もあって店内に入ると、包丁が立てに四百本ほど並べられて、見ていても背筋が伸びる思いがする。
八ツ割という竹を立てに八つに割る道具までも売っているのは美奈子も見ていて驚いた。
市場内を歩いていると、どこかの店の人が大きな声を出して、購買意欲をそそる。
「安いよ。いらっしゃいませ! いかがですか」
美奈子が京漬物屋によると、いつものおばさんが緑のエプロンをして出て来た。
「美奈ちゃん。今日は、ひとり?」
「へえ。ここのお漬物見てたら、お腹空いてきますなあ」
いくつもの樽の中に、ぬかずけが浸かっていて、カモナス、しそ胡瓜などは次郎丸家の食卓にはよく出される種類である。中にはかぼちゃの漬物もあって、ここでしか入手できない隠れた京の名品もある。
店のおばさんは、ぬかの樽から胡瓜を取り出すと、絞るようにその場で野菜についたぬかを取り、あっという間に試食用のものを奥で切り分けてくれた。
「お一つどうえ? そちらさんも」
つまようじで胡瓜をさして渡したのは、美奈子だけではなかった。
観光客であろう、若い女性がふたりが東京の言葉で、
「え? いいのですか」
と驚いた顔をしていた。
「どうぞ、どうぞ。食べて行ってくれやっしゃ」
女性たちは、何か顔を見合わせて、その胡瓜の漬物をパクリと食べると、目を大きくさせて、
「美味しい! やっぱり本場は、違うものですね」
と、口の前に手を持ってきてほんとうに驚いたという風にしてその京漬物をいくつか買って行った。
美奈子もいつも通り、しそ胡瓜なぞを袋に入れてもらいながら、
「商売上手どすな」
と笑うと、おばさんは、
「東京の人は、試食したら必ず買って行きますさかいにな」
と、悪友のように笑った。
美奈子は、京都の人間として、この力ある心の術を感心する所があった。
他にも魚屋に行き、泰時のためにグジを買う時でさえ、目の前でイカの串にさしたものを、観光客にすすめて、そのうまさに感動した東京の人が、何本もそのイカを買って行った。
「美奈子さん。商売はここどすがな」
腕を叩くかと思ったら、胸を撫でさする。
「ただ、買って貰えたらええ思うのは、三流のする事どす。一流は、思い出も一緒に売るもんどすからな」
きっと、胡瓜を食べたあの女性二人も、イカの試食をすすめられた人も皆、思い出と共に美味を買ったのだろう。
それ故に、錦の人は優しい人が多い。
八百屋にしても同じである。
京都にはその土地のついた野菜が多いが、有名なところでは、九条ネギ、聖護院かぶ、鹿ケ谷かぼちゃ、堀川ごぼう、万願寺とうがらし、加茂ナス、京うど、桂うり、などその数は多い。
観光客としても、店前でこの名前を見ると、ほんとうに京都に来たのだというので嬉しくなるようで、笑顔がこぼれるらしい。
美奈子は、八百屋のおばさんにいくつか野菜を見繕って貰いながら、
「それでも、野菜持って帰らはる観光客の人は、少なおすやろう」
おばさんは、その質問にニヤニヤ目じりにシワを寄せて笑うと、
「そんなことおへん。ここでしか手に入らへん言う言葉に弱いみたいどっせ? 東京の人は」
実際、この店は繁盛していた。
季節は秋であるから、その季節の旬のものが店先の目玉として置かれている。
栗の焼いたものを売る店の前では、そのまま毬栗のままのものを装飾に使って、実に秋であった。
小さい女の子が、母親と手を繋いで買い物に来ていて、その毬栗を見て、
「あれ、何?」
と顔を上げて訊いていた。しかし、母親は見るもので夢中で、生返事をするばかりで答えが返ってこない。
女の子は仕方がなく店の人に直接訊きに行ったところ、栗の試食をして、母親の方を振り返って叫んだ。
「お母ちゃん! まんまと罠にはまってしもうたわ!」
店の人は薄く笑って、
「サービスせなあかんなあ。これは」
美奈子は、錦のこういった雰囲気も好きだった。
古いものを残しつつ、新しい風を吹き入れる気風の良さは、商売人として一番大切な資質なのかもしれない。
そう考えた時、自分は堅物な東京の家に嫁ぐことへの何か違和感を覚える。
「よそさんは、京都の事を誤解してはる……」
そういう京都人のこころの寂しさは、京都の人間しか共有できないのか……。
美奈子は、錦市場の活気を感じながら、深く息をついて、錦天満宮の方に歩いて行った。


京都の人は、錦天満宮を錦の天神さんと呼ぶ。
面白いのは鳥居の両側は民家の壁に完全に入り込んでしまっている。
民家の中に入ると、石の鳥居の端っこが家の中で触れられるので実際にその石の材質などの湿り気が手に取るように分かるらしい。
白い提灯明かりの鳥居をくぐると、右手に手水舎、左手に千代が最近まで怖がっていた牛の像がある。
手水舎は手のひらを伸ばしたように口を開けた竜から、京の名水と呼ばれる錦の水が流れ出る。
説明によると、地下百尺から湧き出ているという。
美奈子はそこで、置いてある柄杓で、右の手を洗い、次に左の手を洗い、最後に口を清める。
京都は日本有数の寺社仏閣のある土地だけに作法に関しては、誰かに教わる機会が多くあると言ってよい。
実際、美奈子は、鳥居をくぐる時も一礼して入って来たが、次に入って来た小さい女の子も神様に敬意を払って深々と頭を下げていた。
それ故に、牛の像の前でその小さい女の子が、熱心に牛の前足の甲を撫でまわしているのをみると何か信心深いものを感じる。
「久太郎さん……。お手々、早く治ってね」
女の子は、そう言うと拝むように牛の前で手を合わせた。
美奈子は、こころが熱くなるのを感じた。
牛は菅原道真の使いとも言われているが、何故そのように言われているかは、諸説ある。
道真自身が丑年生まれとか、道真の遺骸を運んだ牛車の牛が、或るところで動かなくなったかと思うと座りこんでしまい、そこを道真公の墓所としたなど、縁は深い。
美奈子自身も丑年生まれで、学業に迷いが出る十代の頃は、よくこの錦の天神さんに通って、牛の像の頭を撫でたものだ。
境内には絵馬や御守りも売られていて、女の子は世界平和のお守りがほしいと、売り手の言った。
しかし、売り手は申し訳なさそうな顔をして、
「お嬢ちゃん。かんにんやで。病気平癒はあっても、世界平和はないんやなあ」
「ほんなら、その病気平癒をください。なんぼか、心が病んでるみたいなもんやさかいに……」
女の子は学生帽を被っていた。
妙な格好やわ、と思っているとその学生帽を脱いで頭の上に、ちょこんとのっけた巾着からお金を払うと、また帽子を被ってしまった。
売り手はあんまり可愛らしい様子に思わず笑いだした。
「お嬢ちゃん。えらい、お茶目な隠し場所やねえ」
「ここが安全やの。ありがとう。御守り」
女の子はそう言うと、御守りを受け取って、鳥居の方に引き返し、また一礼して帰って行った。
まだ、小さいのに偉いわ。近所の子かしらと美奈子が目をぱちくりしながら見送っていると、鳥居を出た先で思いがけず、泰時があらわれて、女の子と合流して、四条通りの方に歩いて行った。
美奈子は、慌てて追いかけようとしたが、人の波に押されてすぐに二人を見失ってしまった。
彼女は、途端に不安になってきた。
「どこいかはったんやろう? ぼっちゃん」
人通りの賑やかな中に美奈子の憂い顔だけが暗く影を引いていた。


千代はその日、泰時と久太郎の自宅に見舞いに行くことにして、いったん自宅に戻り、昼の食事をしてから再び出かけることにした。
泰時は、その日の昼で、奥本家を出て行くはずだったが、幸子がどうにかこうにか説得して、
「それやったら、男としてのけじめをつけてからにしなさい」
と、久太郎との仲直りを勧めたのであった。
その日の昼は、栗ご飯であった。
丹波の親戚から送られて来た栗が玄関の板敷きに箱に大量に入って置いてある。
千代は、その栗の中から色つやの良いものをザルに分けて台所に運んで、母と一緒にあく抜きをした。
「お母ちゃん。甘々にしてや」
「はいはい。分かってますえ」
母子の楽しげな後ろ姿を見ていると、泰時は急に、母の事が恋しくなってきた。
千代は小さいから台所に手を置き、背伸びをするように、母親が料理する様子を見ていた。
泰時も、もう少し小さい頃は、同じように高い台所に背伸びをして、母が作る手料理にうきうきして見ていたものだ。
それが、雇いの女中が台所に立つようになってきて、面白くなくなってきた。
次郎丸の味が変わってきて、明らかに、家族のこころも暗くなって行った。
「……ワシが、家を守らなあかん。家の味を守らなあかん」
そう思った時、彼は次の瞬間、千代と幸子の間に入って、こう懇願していた。
「僕にも、手伝わせてください……。家庭の味を守りたいんです」
母子は、目をぱちくりして顔を見合わせた。


「お母ちゃん。今日の栗ご飯、甘々で美味しいわ」
「ほんに。泰時さんが手伝ってくれたおかげやな」
最近、箸の使い方の矯正を心づいている千代は、何度も箸の持ち方を確認して、
「変な癖が付いたら、大人になったら恥ずかしいえって、言われたのん」
と、隣で美しい箸づかいの泰時に説明するように言った。
左手の茶碗には、ホクホクの栗ご飯が色つやよくこんもりと盛られている。
泰時は、それを涼しい顔をして、まるで大人の女性のようにおちょぼ口で食べるのである。
千代は、そんな泰時の口元の美しい所作に思わずうっとりと見とれてしまった。
「ワシの食べ方、女の子みたいやろう……」
その時、こちらを見ずに薄い微笑をたたえながら話したのは彼の方だった。
「……へ?」
「ええよ。うちのお母ちゃんは、ほんまは女の子がほしかったらしいから……」
千代は、この時、白い肌の首元に写る泰時の艶っぽさが、自分の箸のように矯正されたものだと知った。
泰時の母は、実際、泰時を小学校に入れるまで、女の子のように育てた。
着物も、履物も、使う道具にいたるまで、すべてが女の子の使用するものばかりを集めた。
それは、彼女が泰時を生む以前に、早産のすえに、女の子を一人亡くしている事に由来するそうだ。
「そやから、ワシは、お姉ちゃんの身代わりなんや。どこまで行っても、お母ちゃんの一番にはなられへん」
そう言いながら、やはり涼しい顔で黙々と、茶碗の栗ご飯を食する彼の心が千代は分からなかった。
「それでも、ワシはお母ちゃんを守らなあかん。誰よりも男らしく、猛々しく……」
卓袱台にそのまま、空になった茶碗を置くと、
「おばさん。栗ご飯の作り方教えてくれはってどうもありがとうございます。家に帰ったら、早速、お母ちゃんに……」
彼が、そう頭を下げた時だった。
幸子が、思いがけずかぶせるように言った。
「それでほんまにええのんか」
「……え?」
「ほんまに、それで家族が幸せになれると、思ってるんか」
低い厳しい声に泰時が顔を上げると、そこに幸子の真剣な表情があった。
「なあ。泰時さん。自分の弱さをお母さんのせいにしてへんか? 久太郎さんをケガさせたんも、お父さんとうまくいかへんのも、全部、お母さんのせいにしてへんか?」
泰時は、瞬間、胸が張り裂けそうになった。
自分の心が何か薄っぺらい言い訳で出来ている事を見透かされたようで辛かった。
これから、どうすれば良いのか……。
自分自身を責めればいいのか……。
何もかもが、心の中で、ちぐはぐになった時、ふと千代の手が彼の腕に触れた。
はっとする泰時。
「……ちよちゃん」
「たまには、素直になったら? 男とか女とか関係なしに、こうやって甘えるん」
千代はそう言うと、母の膝元に言って、猫のようにごろごろと甘えた。
「あらあら。千代ちゃんは、素直すぎるように思うけれど……。ふふふ」
「お母ちゃん。温かい」
泰時は、そんな母子の姿を見ると、思わず胸が熱くなった。
僕も、お母ちゃんに甘えたい……。
甘えても良いんだと……。


久太郎はその日、父の仕事場の手伝いとして、紋紙のうず高く積んでいる奥の部屋で、ピアノマシーンの手入れをしていた。
紋紙は、西陣織を織るための情報の詰まった厚紙で、パンチで穴があけたような物が暗号のように連なっている。
ピアノマシーンは物々しい機械であって、その紋紙に穴をあける道具のことである。
泰時は、七つの頃から、糸繰の練習をして、最近、そのピアノマシーンの掃除まで任されるようになった。
そのうち、織の技法としてつづれ織りを習う事になっているが、そのつづれ織りは非常に根気のいる作業であって、熟練のベテラン職人でも、一日に一センチ織るのがやっとだというから、大変骨のいる仕事である。
「お父ちゃん。ワシにも、そろそろシャカード機、使わせてえな」
そう足にまとわりついてくる息子に父はいつも簡単にあしらう様に、
「まだ、早い。それに、その手ではなんぼも織れへんやろう」
そう言われて、久太郎は、包帯で巻いた手の甲を恨めしそうに見つめた。
「久太郎。喧嘩をしてもええけれどもなあ。ケガだけはするな。そして、相手をケガさせるな」
「そやけど、そんな喧嘩この世にあるかいな?」
「ある。喧嘩は頭使ってするもんや」
父はそう言うと、天井に届きそうなほど大げさなまでに大きなシャカード機の前に座って、作業に入る前に手を布きんで拭き、
「喧嘩でケガするもんは、職人としても半人前や。覚えとけ」
と、ぶっきら棒に言った。
久太郎は、そこまで言われて何も言い返せない自分が情けなかった。
彼は、紋紙の山のように積まれた部屋に戻ると、何かふて腐れたように、一畳ほどの畳の上に寝っ転がって、深く息をついた。
「はあ。ワシはいつになったら、見習いになれるんやろう……」
そう彼が、ぼんやりと黒ずんだ天井を見つめていると、
「久太郎! 久太郎はおるか!」
と、雇いの職人のおじさんの大きな声が廊下の奥からこだました。
「はーい! 今すぐ」
久太郎が慌てて起き上がり、部屋を出て行くと、そのおじさんが、首に手拭いを巻いた汚れた姿で、
「おお。そこにおったか? なんや、お前の友達が遊びに来てるらしいぞ」
「友達……?」
「ああ、一人は学生帽被った可愛らしい嬢ちゃんと、もう一人は、次郎丸はんとこのボンや」
久太郎は、一瞬、顔を失った。
泰時が……?
何のために……?
「わ、わかった。ありがとう。おじさん」
久太郎がそう言って、包帯の手を摩りながら、玄関の方に立って行こうとした時、ふと後ろからおじさんがその厚い手のひらで久太郎の肩に手を置いた。
「大丈夫か? ひとりで」
久太郎は、後ろ向きのまま下をうつむくと、
「平気や。千代が傍に居るという事はそういう事やろう……」
そうして不器用な笑顔を振り返って見せた。


長塚家の屋敷は西陣の中でも格別、広かった。
千代の家のように屋内の中に中庭を配置し、部屋の半分を仕事に使う道具などが占めていた。
千代と泰時は、ここの女中に部屋に通されると、慎ましく座布団に正座で座り、「ごゆっくり」といういらか不気味な尻上がりの声と、黙って笑顔でだされた麦茶を飲みながら久太郎が来るのを待った。
「それにしても、床の間に飾られてるあの掛け軸、なんか意味深やわ……」
千代が緊張した様子で、膝の上に乗せた学生帽をキュッと抱きしめた。
その掛け軸には達筆な墨字でこう書かれている。
『目には目を 歯には歯を』
ハンムラビ法典の復習法の一節であるが、実際、泰時はこの家の人にボコボコにされる覚悟でここに乗り込んでいた。
部屋の違い棚には、これも何か意味深な短刀が飾られている。
秋だというのに泰時の額は脂汗で滲むように光っていた。
「千代ちゃん。ワシの骨は拾てくれよ」
「うちは、よう拾わん……」
そのうち、奥の廊下の方からスタスタと誰かがこちらに急いでくる足音が聞こえて来た。
何かはやる心を抑えきれないという気持ちがあらわにしたような切れのある音である。
千代は、その小さな体をさらに小さくして、バクバクと鳴る心臓の鼓動を手のひらで押さえた。
アカン、斬られる……。そう思った。
しかし、次の瞬間、パッと開け放された襖の向こうに思いがけず、久太郎の照れるような笑顔を見てようやくその胸を撫でおろした。
「千代。来てくれたんか」
久太郎はそう言うと、後ろ手で襖を閉めながら、
「よう来てくれたなあ。待ってたで」
泰時は、その言葉を聞いた瞬間に、久太郎の手に巻かれた包帯がその目に入った。
とたんに、目を逸らす。
「久太郎さん。心配してたんやで? この人と喧嘩した訊いて。ほら、泰時くん……何か言いたいことがあるんやろう?」
「え? あ、ああ」
泰時は、本人を目の前にして素直になれないのか、どうにも次の言葉が出て来ない。
「その、うう、ああ……」
その間、久太郎は真顔で彼の顔を見つめていたが、途中で辛気臭くなって、
「もうええ。泰時」
「え……?」
泰時はここで初めて久太郎の目を見た。
何か真の通った、真っすぐな目だった。
「ワシは、別に気にしてへん。喧嘩両成敗や」
そう言って、怪我のしていない方の手を真っすぐに差し出した。
泰時は、一瞬、混乱したが、友の心遣いに自分も真顔になって、
「ええのんか? ほんまに」
「ああ。どうや、ワシと握手してくれるか」
光る久太郎の笑顔が、優しく広がった。
泰時は、その瞬間、こくと頷き、がしりと相手の手を掴んだ。
熱い力が二人の手のひらに通い合った。
真ん中に居た千代はそれを見て、やれやれという顔になると、
「これにて、一件落着やな。世話が焼けるわ、ほんま」
三人は、千代のその言葉に腹を抱えていつまでも、けらけら笑った。


屋敷の中庭にあった小さな紅葉がカサカサなった。
赤や黄などの移ろいの色の中で、人々は少しずつ変化していく……。
それは、京の土地に生きる少年少女も一緒である。
秋が終わると、忍ぶような冬が来る。
その冬でさえ、ぐんぐんと心と体を養わせる子供たちの可能性は素晴らしかった。


秋が終わり、雪の季節が徐々に京都の街に馴染むようになってきた。
寺の塾に通う子供たちの洋装も厚みを増して、教室の後ろには急にえもん掛けの量が増えた。
庭の梅木の細い枝には、竜雲のような雪が積もって、男の子たちが、きゃあきゃあ言いながら、ふざけて木の幹を揺らすと、ばさりとその雪が拡散して落ちて来た。
「ようやるわ。男子って子供やわ。なあ、千代ちゃん」
そう言って、呆れたように外の様子を見て後ろのえもん掛けにミンクのコートをかけるのは、松原で肉屋を経営する野口家の娘である貴子である。
彼女は、如何にも勝気な性格で、この冬からこの寺の塾に入塾したというのに、もうすでに和の中心に居た。
新しいものを何でも先に広めるこの少女は、塾の中にいち早く、流行のスカーフを取り入れた洋装で塾に通って来た。
「東京では、これでブーツを履くんどっせ」
そう言って、ファッション雑誌を広げては、女の子たちに最新のおしゃれを指南していた。
その貴子が、この度、京都の観光用のポスターのモデルに選ばれたとかで、朝からその話題でいっぱいであった。
「貴ちゃん。それって、どこで撮らはるん?」
千代が、振り返ってそう訊くと、
「貴船神社らしいわ。本宮参道に赤い燈篭がずらりと並んで、綺麗なん」
その赤い燈篭に、冬の季節になると明かりがともり、まるで異界への入り口に入るような幻想的な雪の階段が浮かび上がる……。
古くから縁結びの神、磐長姫命を祀るこの有名なこの貴船神社は、発祥こそ不明ながら、少なくとも千三百年前には存在していたというから、歴史的に見てもかなり古い神社と言える。
境内には平安時代の天才歌人・和泉式部の歌碑があり、この貴船神社に参拝した際に詠んだ短歌にこんなものが残っている。
『 ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる 』
歌の意味は、(愛する夫の)恋しさに悩んでいたところ、沢に飛ぶ蛍も私のこの身から抜け出た魂ではないかと見える。
貴船の辺りに、蛍の美しい光りが妖しげな想像を誘ったのだろう……。
千代もこの歌は前々から知っていて、一度、貴船神社に参ってみたいと思っていたところに、貴子の話があったので、何かこころ浮かれるものがあった。
観光用のポスターは貴船の景観の美しさが映える、次に雪の降った日に決まったという。
同い年くらいの男の子と一緒に、背中合わせになって綺麗な着物を着て写真に写るらしい。
「ええなあ。貴ちゃん。一気に有名人やもん」
「ほんに。貴ちゃんが選ばれたんも分かるような気がするわ」
女の子達が笑顔で褒め称えるのを、貴子はまんざらでもない顔で目を細めて笑った。
しかし、そんな中で、普段、大人しい早苗がじっと貴子を見ていたと思うと、ふと嫌味を言った。
「貴ちゃんは、お父さんが偉い人やさかい……」
その瞬間、貴子の表情が変わった。
「……なに? 早苗ちゃん、何かうちに言いたいことあるのん」
ふと、怒ったように席から立った貴子の眉毛が吊り上がっている。
早苗は、急に怖気づいて、
「ううん。なんでもない……」
と、下をうつむいた。
千代は、何故、早苗が場に不穏な音を入れたのかと、不思議でならなかった。


塾が午後の五時に終わり、皆、それぞれ家路に帰る時になって、寺の外に出るとちらちら降る雪の白さが際立つような寒さに澄んでいた。
千代は、いつものように早苗といっしょに連れ立って道を歩いていると、早苗が急に、一間、遅れてとぼとぼ歩きだして何か沈むような声で、
「なあ、千代ちゃん。あれ、ほんまは、うちがポスターに乗るはずやったんやで」
と、寂しく言った。
千代が驚いて振り返ると、青白い顔をした早苗の頬が燃えるような赤色に染まっていた。
その頬には、小さな涙がツウと線を引いて日の光りを悲しげに受けていた。
千代はなんと声を掛けて良いのか分からず、肩を震わせている早苗をその澄んだ瞳でしばらく見ていた。
そこには、哀れ深い少女のこころがあった。
早苗が言う、自分がポスターのモデルを務めるはずだったという意味の言葉は、実際、本当の話らしかった。
最初に市の役員から早苗に要請があった時、早苗は久しぶりに家でも明るく振舞い、小躍りして鼻歌を歌うという風であった。
「お母ちゃん。うち、このまま女優さんになるかもしれへんな」
そう言って、母の鏡台の前に座って、ポンポンと頬をパフで叩く真似をして、くすくす笑った。
足の悪い祖父も布団の中から、そんな孫娘のうきうきした姿を見るのが嬉しいのか、珍しく、シャレを飛ばすという風だった。
早苗の母もそれに期待して、
「この家に、冬が終わるより先に、春が来るようやわ」
と、額にかかったおくれ毛を久しぶりに櫛で整えた。
家族の幸せは、もうこの時期、早苗の出世よりなにより他にはなく、期待を超えた過剰な心が芽生えていたのは確かのようだ。
しかし、その幸せは長くは続かなかった。
或る日、市の役人が自宅に饅頭の包みを持ってきて、非常に申し訳なさそうに頭を下げるのである。
玄関先で、作業着を着たその人が、何度も何度も早苗の母に誤るのを奥の部屋から顔を出して見ていた早苗は、ある種の悪寒が走った。
市の役人が帰って、饅頭の包み紙を手に持って沈むようなため息をついて廊下を戻って来る母。
早苗は、虚ろな目をした母の額に、再びあのおくれ毛が垂れているのを見た。
「お母ちゃん……。どないしたの」
そう早苗が訊いても、しばらく、ものも言えない母。
それは、残酷ながら、どうか察してくれ、という心の表れのように見えた。
早苗はすべてを見透かし、グッと唇を噛むと、下をうつむきながら涙を一杯にためて言った。
「お母ちゃん。アカンもんは、アカンもんやな……」
早苗がその後、貴子に役を取られたことを知ったのは、塾に来て、貴子自身が周りに吹聴しているのを耳にしたときだった。
「うちはイヤや言うたんやけれどもな、お父ちゃんがどうしてもいうから引き受けてん。めんどくさあ」
早苗は、心の中に燃え上がる悔しさを押さえきれず、何か言ってやらねばな気が済まなかった。
「貴ちゃんは、お父さんが偉い人やさかい……」
今思うと、ひじょうに大人げない言葉であったと思う。
雪のチラつく祇園のまちに、早苗が静かにしゃがんで、顔をハタと両手で覆った。
「千代ちゃん……。うち、自分がキライ。自分がキライでならへん」
横を向くと白川の脇の木々に、霜のような雪の筋が走っていた。
降っては落ちる雪が、川の中に入ると途端に、姿を変える……。
それは、一粒のこころとしては、如何に弱々しいものに見えた。
早苗が咄嗟に、貴子の前で態度が変わったのも、川に飛び込むような変化があったのだろうか……?
いずれにしても、大きな諍いは、和の心をいとも簡単にひねり潰してしまう。


「ただいま帰りました……」
千代が自宅に帰って来ると、玄関に家の者とは違う、大きな革靴があった。
誰かお客さんかしら……そう思って、廊下を抜けて大人たちの話の聴こえる客間の方に聞き耳を立てると、
「なにしてますのんや。行儀の悪い……」
後ろから、盆に茶を運んできた母に見つかってしまった。
千代は、一瞬、びくりとして振り返ると、
「うちも、お客さんにご挨拶せなアカン思うて……」
母はそれを聞いて、意外にも頬が横に膨らむほどに機嫌よくにんまりと微笑むと、
「ちょうどええわ。そのお客さん。千代ちゃんに会いにきはったんやで」
「……うちに?」
「そうや。吉報があるのんどっせ」
そう言って、母は襖をあけると、
「千代ちゃん、今帰りましたァ」
と弾むような口調で娘を部屋に押し込んだ。
千代はそこで気躓きかけながら、ようやく顔を上げるとそこに父と向かい合おうように座っている老人に満面の笑みを見せた。
「片岡のお爺さんや。ようお越し」
片岡洋一は自分でも慣れないと言っていた背広姿で、座布団から立ち上がると、
「師匠、待ってたで。月に一回は師匠の顔見なお爺さん、寂しい手なぁ。ハハハッ」
そう言いながら、千代が近づいてくるままに抱っこして、
「よう勉強してるか? 千代ちゃん」
「うん。今は、万葉集を研究してるのん」
「ほう、千代ちゃんは、歌人にでも成るつもりかいな」
「うちは、学者になるの。国文学者やで」
父母はその娘の発言に、目を大きくして驚き、肩をすくめた。
善三は、千代のためにこの冬、色々な書籍を買い与えたが、その中でも源氏物語は彼女のお気に入りらしいのだ。
「そうか。ますます、才女になって行くんやなあ、頭の学生帽被ってから、天神さんが憑いたようやなぁ」
「錦の天神さんには毎月、通ってるから、そのご利益かもしれへん。あ、それよりお爺さん、うちに吉報ってなんやろう」
千代は片岡の腕からひょいと降りると、改めてそばの畳に正座して訊いた。
片岡は何かニヤニヤして善三や幸子に目配せすると、
「実はな、千代ちゃんに、ひとつお願いがあってな。着物の展示会に使うポスターのモデルになってほしいんや」
「……へ?」
千代は思いもかけない言葉に驚き、目をぱちぱちさせた。
「それって、京都中にうちの顔が張り出されるていうこと……?」
「もちろんや。千代ちゃんの顔がそのまま、展示会の顔になるねや。どうや、やってみいひんか」
片岡が期待と希望の表情で、千代の顔をじっと見つめた。活発な千代ならば必ず、この話に乗って来るという打算があったからだ。
しかし、千代は、すぐには返事を返さなかった。それどころか、
「せっかくやけども、ご辞退させていただきます……」
と、瞳を小さくして言ったものだ。
一瞬、早苗の顔が頭によぎり、彼女に悪いという心が働いたのだ
父母は、思いがけず、顔を見合わせて、何か不安でもあるのかと、心配になった。
片岡も予想だにせなかった反応に、拍子抜けして、
「そうか……。千代ちゃん、ごめんな。無理な話して……」
と、その白髪頭を不本意に撫でた。
千代は何か顎に梅干しのような筋を浮かばせながらグッと涙を堪えると、
「かんにん……。かんにんどっせ。お爺さん……」
その小さな女の子の必死に畳に手をついて謝る姿は、親でさえ心が打たれるものがあったし、片岡にしては何か話してはいけない事を言ってしまったようで逆に、申し訳なくなった。
「千代ちゃん。もう泣かんといて。ささ、お母ちゃんとあっちへ行きまひょな……」
母に抱かれるように、部屋を出て行く千代。
襖を閉めた後にも、その悲しげな鳴き声が廊下の先から、すすりきこえる。
片岡は、先ほどの笑顔とは違って、ただ苦笑すると、
「失敗したわ。奥本はん。千代ちゃん、あんなにイヤなんやなあ」
そう言って、虚ろな目で、どっと疲れた顔を手で擦った片岡に、善三は気を遣うように、
「えらいすんまへん……。ワシからも後で、訊いてみますわ。塾で何かあったんかも知れへんしなあ」
片岡はそれを承知すると、早々に、屋敷を後にした。
外は、豪雪と言う程ではなかったけれども、花見小路の店らに吊るされた提灯の灯りに照らされて、赤い番傘をさして帰って行く片岡を、妙に寂しく浮き彫りにした。
玄関先まで見送った善三は、何か息をついて、独り言のように、
「悪い事してしもうたなぁ……」
白い息がしばらく漂って、そうして雪にかき消された。


「千代ちゃん。どないしたのん。泣いてたら分からへんやないの」
奥の部屋で、正座で座った母の膝に顔を埋めて、
「かんにん……。かんにん、お母ちゃん」
と、泣きぐずる千代の背中を両手で撫でさすりながら、幸子は、困ったように言った。
「塾で、なんかあったのん? 虐めにあったとか?」
千代は、顔を埋めたまま、ちがう、ちがうと首を横に振ると、
「うちかて、ポスターのモデルやってみたい。でも、そんな義に反する事できひん」
母は、娘の言っている意味が分からず、
「それどういう意味やの? お母ちゃんに分かるように話して見なさい」
そう言って、体を起こさせても、千代ははっきりした事を言わなかった。
子供を詰問しても追い詰めるだけであるので、幸子もそれ以上は何も言わなかったが、
「片岡はんに今度、一緒に誤りに行きまひょ。それこそ、義やさかいにな」
千代は目を赤くしてこくりと頷くと、
「それは分かってます。うちは、義を守る女やさかい」
涙目ながら、その目には意志の強い黒さが滲んでいた。
母もその瞳の美しい娘を信じることしかできなかった。
その日、夜のうちにこの辺りを吹雪が通るらしかった。
部屋の小窓を強い風が当たって、かたかたと一定の間隔で音が鳴った。
月も吹き飛ばされるかと思うような風であった。  


(つづく)

×

非ログインユーザーとして返信する